果てしなく続く青い空 −特別な愛の詩−
act.V
背中にリナの体温を感じる。
ソファに腰掛け音楽を聴いていた弥生に、リナはその隣に座るのではなく背もたれとの間に体を割り込ませ抱きついていた。
弥生の肩口辺りに頬を乗せ腕を腰に回し寄り掛かるように密着している。
「こうやってゆっくり一緒にいるの久しぶりね」
「そうね」
弥生は答えながら一体誰の所為で久しぶりなのかと少し苛立ちを覚えていた。
今朝のことだ。
三週間、きっかり二十一日振りにリナは弥生の部屋に現れた。
曲作りに入るからライブはしばらく休むとは聞いていた。
またいつも通り一週間辺りは姿を見せないのだろうと思っていたが、まさか三週間とは想像もしていなかった。
しかもその間一切何も音沙汰なしである。
曲作りに時間が掛かっているのだろうとは思ったが、流石に二週間を過ぎた頃から不安になり始めた。
そろそろこちらから連絡を取ろうかと悩んでいた時にリナはようやく姿を見せたのだ。
幸いと言っていいのか、仕事が順風満帆で『アマルガム』としての活動が忙しく寂しさに思いふける時間も少なくて済んでいた。
リナのバンド『プロフェシー』で助っ人として演奏するようになってから、
彼女の歌に負けないようにと練習により力を入れてきたこともあり弥生のギターの評判は上がっていた。
更にはリナとの関係で弥生にセクシーさが増したことも要因かもしれない。
突然現れたリナは目の下に隈を作り見るからにやつれていた。
姿を見るなり弥生はリナを抱きしめた。その体は少し痩せたように感じた。
「リナ、折角来てくれたけど、あたし今から仕事に行かなくちゃいけないの」
時計に目を遣る。十数分程度なら余裕があることを確認する。
今すぐにでもベッドに潜り込み肌を触れ合わせたい衝動に駆られたが、当のリナにはそんな様子が微塵も感じられなかった。
ただ穏やかに微笑を浮かべ、そして明らかに眠そうな顔をしている。
「やっと出来たの」
リナの手には譜面が握られている。
「新譜?」
「そう。今回のはちょー大作なの」
リナは“ちょー”の部分を伸ばし強調して言う。
「そのちょー大作が出来るまで時間が掛かって三週間も来なかったの?」
少し嫌味を込めて言ったつもりだが、リナは眠気の所為か全く意に介することなく素直に頷いた。
「後にも先にも、もうこれ以上のものは作られないぐらい。もう、すっごいんだから」
「リナ、あんまり寝てないんでしょ?」
明らかにいつもと様子が違っていた。しゃべり方も緩慢でぼんやりとしている。
「うーん、そうかも?あはは」
「笑ってる場合じゃないでしょ。いくら曲作るためって言っても無理して体壊したらどうするの」
「だーいじょうぶ。へーき、へーき」
弥生はため息を吐いた。今のリナには何を言ってもへらへら笑っているだけで、きちんと言葉が届きそうにはなかった。
「リナ、今日仕事は?」
「どっちも休みー」
「そう、じゃああたしが仕事から帰るまでゆっくり休んでて」
「うん、そうする」
リナは口元を押さえ大きな欠伸をしながら答えた。
ゆったりとしか動かないリナをベッドまで連れて行き、素肌を目にして触れたい衝動を抑えながら服を脱がせ寝巻きに着替えさせた。
リナは自分で着替えすらも出来ない程ふらふらしていた。
よくこんな状態で外を歩いてきたものだ。
薄いタオルケットを体に掛け、今にも寝入りそうなリナの髪を撫でた。それからその額にキスをした。
「じゃあ、行くわね。今日は音入れだけだから、そう遅くならないと思うわ」
「うん、待ってるから。帰ったら見てね、新譜」
リナはまるで赤子を抱くように大事そうに譜面を抱えたままだった。
唇を尖らせせがむリナに望み通り軽く口付けを施した。
唇を離した時にはもうリナの意識は夢の世界へと旅立っていた。
空調を緩めに設定し、そっと部屋を後にした。
梅雨が明け雲ひとつない青空が一面に広がり、ギラギラと太陽の陽射しがアスファルトに照り付けていた。
季節は真夏の到来を知らせている。
やがて夜が長い秋を迎え、そして体を寄せ温め合う寒い冬がやって来る。
季節は幾度となく巡り、この果てしなく続く青い空のようにリナと音楽のある生活が永遠に続くと弥生は信じていた。
仕事を終え部屋に戻りベッドを覗くと、リナはまだ眠っていた。
あれから十時間近く経っているにも拘らず、穏やかな顔で小さな寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている。
リナの手から離れいていた譜面を取り、ソファに腰掛け早速目を通した。
三週間も掛けた超大作というのでどれ程手の込んだものかと期待した分余計に肩透かしを食らった。
譜面にはギターそれもアコースティックギターの伴奏と、歌のメロディしか書かれていなかった。
歌詞はない上にタイトルすら書かれていなかった。
いつも一週間程度で曲作りを済ませていた時は、リナは作詞作曲を終えた状態だった。
その後にバンドメンバーでアレンジをして曲を完成させる。
その完成した譜面とデモテープをリナは弥生に手渡しライブに備える。
曲を完成させる前の作詞作曲を終えた段階で、リナは弥生に会いに来ていた。
だから今回はリナが譜面を持って来ていたのでいつもと違いすでに曲が完成した状態だと思っていた。更には三週間も掛かっていたのだ。
だがこれは明らかに未完成だった。
リナが寝ぼけた余り譜面を間違えて持って来た可能性も考えた。
とりあえず起きて来るのを待っていようと、小さめの音量でリナが持ち込んで置いてあるレコードを聴いておくことにした。
そしてひょっこり起きて来たリナが弥生の背中に抱きついている今に至るのであった。
スピーカーから女性ロックボーカリストの小気味良いリズムに乗ったワイルドな歌声が流れている。
「ねぇ、リナ。譜面見たわ」
「うん、どうだった?」
テーブルに置いた譜面を手に取ろうと思ったが、リナが腰に手を回し抱きついているため動けなかったので諦めた。
「あれは完成してるの?」
「してるよ」
リナが淀みなく答えたことに、寝ぼけて譜面を間違えた線が正しかったかと弥生は思う。
「ギター、それもアコギの伴奏しか書かれていなかったけど」
「そう、伴奏はアコギだけだから」
「アコギだけ?」
寝ぼけて間違えたのではなかったのか、と弥生は驚く。
「そうよ」
「じゃあ、これはリナの弾き語りなの?」
「違うわ」
「あたしが弾くの?」
「もちろん」
リナはさも当然とばかりに答えていく。
「ねぇリナ。あたしはアコギよりエレキの方が……」
「知ってるわ。でも今度の新譜ではアコギだから。しかもソロ。しっかり練習してね」
元々パンクロック好きの弥生はアコースティックギターよりも耳をつんざく様な迫力のあるエレキギターの方が好みであった。
「……分かったわ。だけどリナ、この譜面には歌詞が書かれていなかったけど」
「あー、それは……。まだっていうか、ちょっと悩んでて……」
先程その口で完成していると言ったではなかったか。やはりこれはまだ未完成であったのだ。
「三週間も掛かったちょー大作の割には中途半端なのね」
「ん?ちょー大作?」
リナはその言葉を初めて耳にしたかのように訊き返す。
「リナ、自分で言ってたじゃない」
「そうだっけ?」
リナは真剣に首を捻っているようだった。まさか今朝の会話を憶えていないのであろうか。
「ねぇ、歌詞が出来てないってことは……」
「何?」
言葉を詰まらせた弥生にリナは先を促す。顔が見られていないため、続きの言葉もまだ言い易かった。
「出来上がるまで、また……来ないつもり?」
ふふっとリナが笑った振動が肩口から伝わってくる。
「大丈夫よ。もう、そんなことないから。ねぇ、弥生。寂しかったの?」
言葉で答える代わりにリナの手を握った。耳元で囁くリナの声に体はすでに熱く反応していた。
否、本当はリナと会った今朝からずっとだった。
「ごめん。今晩はいっぱいしてあげるから、ね」
“あんたが大好きさ”
スピーカーの女性ロックボーカリストが掠れた声で情熱的に唄っていた。
「えー!マジで!?」
リナの驚いた声が部屋に響く。
存分にベッドで愛し合った後、乱れたシーツの上でお互いの予定を照らし合わせていた。
間が悪く弥生が仕事の空いている日に限ってリナのライブの予定がなく、
次に『プロフェシー』の助っ人に入られそうなのは1ヶ月余り先になりそうだった。
「そんなにも新譜、お預けになっちゃうのか」
全裸のまま枕元で膝を抱えて座っていたリナは肩を落とす。
「『プロフェシー』のメンバーではやらないの?」
同じく全裸でうつ伏せに寝転んだ状態の弥生は、自分のスケジュールが載った携帯端末を見ていた。
「やらない。これは弥生とのセッションを想定して作った曲だから」
「でもほら、歌詞もまだなんだし。ゆっくり考えられるじゃない」
「……そうだけど。はー」
残念でならないとばかりにリナは大きなため息を吐いた。
余りの落ち込み具合に弥生は申し訳ない気持ちになっていく。
「この頃、仕事が忙しくなってきてて。個人の演奏の依頼とかもあったりして。
ちょうどリナのライブがしばらくないって言ってたし。それにリナ、ずっと来なかったから仕事入れちゃって……」
「弥生はどんどん売れっ子になってるね」
その言葉に嫌味は一切含まれておらず、ただ眩しいものを見るように目を細めてリナは弥生に柔らかく微笑みかけた。
それから真正面に視線を移すと、まるで虚空でも見つめるかのように無表情でポツリと呟いた。
「いつか……」
目を閉じ一呼吸置いてからリナは弥生の隣へ笑顔で寝転がった。
「弥生ってばギターの腕、上達してるもんね」
肩を寄せリナは顔を近付けて来る。
「本当に?」
音楽についてはいつも真面目で真剣なリナが褒めてくれたことに弥生は純粋に喜びがこみ上げてくる。
「ホント、ホント。あー、私も負けてられないわ。あっ、でも忙しくてもアコギの方もしっかり練習しておいてよ」
「ええ。分かってるわ」
「一ヶ月もあるんだから充分だね」
「そうね。リナの方もちゃんと歌詞作ってきてよね」
あはは、と笑いリナは頷いた。
「そーね」
だけれどもリナは一向に歌詞を作ってくる気配がなかった。
新譜をアコギで弾いて練習しようにも歌詞がなくては感じが掴めないため身が入らない。
「ねぇ、リナ。まだ歌詞は出来上がらないの?」
流石にいつまでも手をこまねいてばかりもいられないのでリナに問い掛けた。
「え?何?」
シャンプーの泡を髪全体にまとわりつけ、目を閉じた状態のリナが振り返る。弥生は浴室で背後からリナの髪を洗っていた。
「ちょっと待って。流してから話すから」
柔らかくそれでいて癖の強いリナの青い髪に付いた泡をシャワーで流し、トリートメントを塗りながら再び同じ質問をした。
「うーん、もうちょっと……かな?はい、じゃあ今度は弥生の番ね」
トリートメントを浸透させておく時間、今度は弥生が洗われる番だ。
リナが立ち上がったので弥生はバスチェアーに腰掛けた。
ポンプを押し出しシャンプーの液体を手に取るとリナは弥生の髪を泡立てていく。
頭皮をマッサージするように指先に圧を掛けて洗う。他人に髪を洗ってもらう心地良さを弥生は実感していた。
「弥生の方はどうなの?仕事、忙しそうだけど練習してる?」
「だからその練習をしようにも歌詞がないから感じが掴めなくて出来ないの」
弥生の黒いストレートの長い髪を毛先まで両手で挟みリナは丁寧に洗っていく。
「そっか。まぁ、そこはイメージでやってよ」
「イメージって言われても……」
「弥生になら出来るって。じゃあ流すよー。下向いて」
そんな感じでリナは何度訊いてもはぐらかした。
次第にリナは意図的に歌詞を伝える気がないのだと気が付いた。
あたしを試しているのだろうか、と弥生は考えた。
今のこの譜面だけでどれだけのことを感じ取ることが出来るのか。
苦手なアコースティックギターでどこまで演奏できるのか。リナがあたしを試している。そんな気がした。
そう考え始めてからは仕事の合間に本腰を入れて練習に取り組んだ。
アコギで伴奏を弾きながらメロディをハミングし曲をイメージしてみるが上手くいかない。やはり今ひとつ感じが掴めない。
これまでリナが創造し唄ってきた曲を思い出してみる。
ロック色が強く、目が覚めるようなリナのシャウトに乗せた聴く者にパンチを食らわすかのようグイグイ押していく攻撃的とも言える曲だ。
だけど明らかに新譜は違っている。
アコースティックギターだけで弾くブルージーな曲だった。
しっとりとして哀愁が漂っていながら、優しさがあり、その中にも強さを感じる。そう、まるでリナ自身のようだ。
そのリナを想像しながら繰り返し何度も何日も弾き続けた。
そしてギターを弾くだけではなく、今まで以上に幅を広げて様々な音楽を聴くようにした。
実家の父が収集してあるレコードを借りに行ったりもした。
「この頃、疲れてそうだけど大丈夫?」
先にベッドで横になっていたリナは、その隣に潜り込んできた弥生の頬に触れながら訊いた。
弥生は今晩も『アマルガム』のプロモーションビデオの撮影で遅くなり、帰宅した時にはリナは先にベッドで眠っていた。
軽くシャワーで汗を流してから弥生もベッドに入った。
「ごめんなさい。起こしちゃったわね」
「ううん。へーき。それより弥生の方が心配よ」
疲れは確かに溜まっていた。プロモ撮影というギターを弾く以外のことまで仕事とはいえしなくてはいけない。
しかも監督の納得が行く映像が出来上がるまで同じことを繰り返しやらされる。苦痛な作業だった。
だけれどもそれも仕事の一環なのだ。公認アーティストは公に宣伝してもらえる代償として苦痛な作業も行わなくてはいけない。
「ちょっと疲れてるかな」
「そう、じゃあ今晩はやめとく?なんなら代わりにララバイでも唄ったげるよ」
「ふふ、それもいいかもね」
「あらら、珍しい。これはそーとーお疲れのようですな」
茶化して言うリナに弥生は抱きついた。
「うそ。ララバイよりリナのエッチな声の方が聞きたい」
「あはは、やっぱそうだよね。それでこそ弥生だわ。この、すきものめ」
「お互い様でしょ」
口付けを交わす。次第に深く、熱く。
「ねぇリナ。あたし何となくだけど分かってきたの」
「ん?」
リナに服を脱がされていく。
「ずっとリナがどういう気持ちで、あの新譜を作り上げたのか考えながら弾いていたの」
「うん」
「いつもよりずっと時間を掛けていたじゃない?」
「そうね」
「で、ちょー大作な訳でしょ」
「だから何?そのちょー大作って」
やはりリナは自分が言った言葉を憶えていなかった。だけど寝ぼけていたとはいえあれは本心であったに違いない。
寝ぼけていたからこそとでも言うべきか。
そして更には「後にも先にもこれ以上のものは作られないくらい」とも言っていた。
「曲調も今までのものとは全然違う。だからきっと歌詞も今までと違うと思うの」
「なるほど」
リナは歌詞がまだ出来ていないとは言わなかった。思った通り意図的に出来ていない振りをしていたのだと確信した。
「あたしね、この曲に感じたの。愛を」
リナは手を止め、弥生の顔を驚いた表情で見た。
「リナの音楽に対する愛を」
曲からだけではない。五線譜に書かれた手書きの音符たちからも愛が溢れているようだった。
リナは少し考えるかのように黙ったままだったが、
「その通りよ。音楽に対する愛をめーいっぱい込めて作ったよ」
と、言って優しく微笑んだ。
きっと始めから歌詞が書かれていたら、ここまで深くひとつの曲に対して考察を行わなかったであろう。
一曲弾くに当たってここまで思い巡らせたことは初めてだった。
じっくりと考えしっかりと感じ取ろうと深く掘り下げたからこそ作った人の想いが伝わってくる。リナの狙いはここにあったのか。
恐らく仕事が多忙となった今、これまで同様に新譜を渡されていたなら時間を掛けて取り組んでいたとは思えない。
リナの指と舌が弥生を快楽へと導いていく。
そしてリナの腕の中、彼女のララバイを耳にしながら深い眠りへと落ちていった。