揺るぎない赤い焔   act.U




 急ぎの仕事もなく昼時分に手が空き公安局内にある食堂に向かった志恩は、混み合う利用者の中で意識するでもなく弥生の姿を探していた。
 潜在犯である執行官との接触を自身の色相保持の為避ける者が多く、取り決めがあるでもなく暗黙の内に座席が分かれていた。 お陰で弥生の姿を見つけやすく、志恩はむしろそれが有難いくらいに思っていた。
 いつもと変わらず黒いパンツスーツ姿に身を包み髪をひとつに纏めたその姿を確認すると、 食事の注文をして受け取り弥生の隣へ座った。
「相変わらず、今日もうどんなのね」
 口にしていたうどんを啜り終えてから弥生は顔を上げて隣の志恩を見た。
「今日はきつねうどんよ。この前はカレーうどんだったわ」
「うどんには変わりないじゃない」
「まぁ、そうね」
「この調子だと次に会った時は……てんぷらうどんかしら?」
 弥生は丼に浮かぶあげを箸でつついている。
「残念ね。きっと鍋焼きうどんだわ」
「うーん、外したかぁ」
 もう幾度となく肌を合わせ軽口を言い合える仲にはなっていた。 だけれども未だに志恩から誘うだけで弥生からはまだ声が掛からない。 それにラボにいつでも来てもいいと言ってあるが、用事がない限り顔を見せることもなかった。 それでも公安局内では一番親しい仲だと志恩には自負があった。
「志恩は?」
 どれどれとばかり窺うように弥生が志恩のテーブルの前を見る。 色取り取りの料理の乗った皿がトレイに並んでいた。
「お肉にサラダ、副菜にご飯とお味噌汁。美容と健康をきちんと考えてあるわよ」
 自分で調理した訳でもないのだが、どうだとばかり得意気に志恩は話す。
 一般的にはバイオ合成された食品で済ませることが現在の食糧事情では主流であったが、 公安局内では昔ながらの調理方法で食すことが出来た。味気ない合成加工食品より調理されたものの方が断然美味しい。 折角利用できる官僚の特権なのだ。利用できるものは利用すべきだというのが志恩の考えであった。
「ふーん」
 弥生は全く関心がないとばかりの返事をしてからうどんを啜った。 白く細長い麺がずるずると音を立て弥生の口の中へ吸い込まれていく。
「ダメよ。若い内からきっちりしておかないと。美容にしても健康でも歳を取ったら差が出ちゃうものよ」
 うどんを咀嚼しながら弥生は変わらず無関心そうな態度で聞いている。
「だったら煙草ってどうなの?」
 ちらりと横目で志恩に視線を送りながら弥生が訊く。
「それはねぇ、別なのよ。煙草がないとむしろストレスが溜まってしまうの。 ストレスは一番の大敵よ。美容にも健康にも色相にも悪影響を及ぼすわ。 分かりやすく言うと、まぁセックスと同じようなものかしらね。一度覚えてしまうと止められなくなってしまう、みたいな。 体が寂しくなるのと同じで煙草がないと口が寂しく感じるものなのよ」
 口の中のうどんを飲み込みながら煙草を吸わない弥生は首を捻り理解を示しているのかいないのか曖昧な顔をしている。
「弥生は化粧もほとんどしてないし、そういうの興味ないのね」
「塗りたくるの好きじゃないし。それに面倒だわ」
「その割にはいつも爪だけは綺麗に整えてあるわよね」
 以前からセックスする度に思っていた。感心するほど常に綺麗に整えており、その指で撫でられる感触が志恩は大好きであった。
 うどんを掴もうとしていた弥生の箸を持つ手が急に動きを止めた。
「これは昔からの習慣で……」
 まるで独り言のように呟き箸をうどんの入った丼に置いたまま弥生は掌を上に向けて指を軽く曲げ、 じっと右手の桜色のマニキュアが塗られた整った爪を暫く見つめていた。 どこか遠い追憶の世界にでも行ってしまった様に微動だにしなくなった。
 ふと志恩の脳裏に滝崎リナの影がよぎった。『昔』というキーワードが彼女を想起させた。
 突然重苦しくなった空気に嫌悪を感じ、払拭すべく話題を爪から逸らした。
「面倒だからって化粧はしなくてもお肌のケアだけはしておいた方がいいわよ。 お風呂上りに化粧水と乳液くらいは塗ってあげるべきね」
「そういうものなの?」
「そういうものよ。乾燥が老化を早めるのよ」
 再び弥生が箸を持ちうどんを啜り始めると、重苦しかった空気は消えていく。
「好きな人のためにもいつまでも綺麗でいたいって思うでしょ?」
 弥生は咀嚼しながら「うん」とも「ふーん」とも判別がし難い返事をする。
「じゃあ今度、私のオススメのコスメ持って行ってあげるわ。一度試しに使ってみて」
 上手く弥生の部屋を訪れる口実が出来て志恩は先程の嫌悪感もすっかり忘れてしまう程だった。
 ホログラフィックで自由に内装のデザインを選べる時代であり、 弥生の部屋はスタイリッシュでいて飾り気がなく、志恩のリゾートホテル然としたものと比べると落ち着いた雰囲気を醸していた。
 その弥生の部屋へはまだ数度しか足を運んだことがなかった。特に拒絶されている訳ではなくただ 誘いが掛からないだけで、用事があり訪れると弥生のお気に入りの紅茶をご馳走になることもある。 だが弥生の部屋のベッドの感触はまだ知らなかった。
 話すことに夢中になり今になってようやく志恩は箸を持ち食事を始めた。



 今日こそは、という想いを胸に数日後プライベートの時間にオススメのコスメを持参し身だしなみを整えて志恩は弥生の部屋を訪れた。
「私。入るわよ」
 ノックをして扉を開けると、初めて見る弥生の姿が目に飛び込み一瞬どきりとした。
 パーカーにジーンズ姿でいつものオフのラフな格好と変わりはなかったが、エレキギターを抱えて椅子に座っていた。
「少し待ってて」
 弥生は志恩の姿を一瞥だけしてギターに視線を戻した。
 新しい掌ぐらいの円を描くように幾重にも丸まった弦を小さな袋から取り出し、それをギターに張り付けていく。 その仕草は実に手馴れているらしくとてもスムーズであった。
 見慣れない光景に部屋へ入った志恩は突っ立ったまま傍で食い入るように見惚れていた。 そういえば弥生は潜在犯に落ちる前は公認アーティストでバンドのギタリストをしていたのだったと思い出す。 今ではすっかり執行官姿が板に付いていて忘れてしまっていた。
 ギターからツンツン余って飛び出している弦をニッパーで切り張り終えると、ひとつひとつの感触を確かめるように弾いて音を奏でていく。
「ねぇ、弥生。何か弾いてよ」
 音楽に関心がなく公認アーティスト時代を知らない志恩は、弥生がどういう曲を弾いていたのか知りたくなった。 きっと格好良かったのであろうことは容易に想像できた。そしてそれを今、見てみたいと思ったのだ。
「厭よ。チューニングしているだで弾くつもりはないわ」
「えー、少しくらいいいでしょう」
「弾きたくないの」
 弥生は不機嫌にそう言うと立ち上がり志恩に背を向けギターを何物にも代えがたい程大切そうに扱いケースに片付けていく。 元々物を粗末に扱ったりしない性格であったがここまで丁寧にしている姿は初めて見た気がした。
 どうして弾きたくないの?弾きたくないのに何故ギターの手入れをしているの? 爪だってそう。ギターを弾きたくないのにどうしていつも綺麗に整えてあるの?
 いくつもの疑問が志恩の頭に浮かんだが、何ひとつ訊くことが出来なかった。怖かった。 答えが怖くて訊くことが出来なかったのだ。
 爪を昔と変わらず整え続けギターの手入れも怠らず、弥生はいつでも過去へ、音楽の世界へ、滝崎リナの許へ戻ることが出来るように 準備を万全にしている。志恩の瞳には弥生がそんな風に映っていた。
 あのギターには弥生の大切な思い出がいっぱい詰まってあり、ケースの中で大事に仕舞われているのだ。 そしてそれは決して私には触れることが出来ない。
 再び滝崎リナの影が志恩の脳裏を掠める。
「この前言っていた物、持ってきたわよ」
 志恩は手にしていたコスメを持ち上げ弥生に見せる。
 ここに来るまでに盛り上がっていた気持ちは消沈し、とてもこの後セックスする気分にはなれなかった。



 滝崎リナは幾度となくそうして志恩の前に現れた。
 公安局へ送りつけてきたあのポルノ映像は、もう見ることはなかった。 むしろ今見ると気分を害しそうで避けている。滝崎リナがあの映像の中で勝ち誇っているように見えてしまいそうだったからだ。
 彼女に対抗心を燃やしていた志恩であったが、この頃すっかり勝てる気がしないでいた。 そもそも幻影などにどう対抗しろというのだ。
 しかしだからといって弥生への気持ちが冷めるでもなく、むしろ愛しさが募る一方であった。 それ故、体が繋がっても心が繋がりきられないもどかしさが一層辛かった。 いつも滝崎リナに阻まれる。
 そんな憂鬱な状況ではあったが志恩を安堵させることも幾つか存在していた。
 弥生が睡眠時に涙を見せることは殆どなくなり、彼女の名を口にすることに至っては一切なかった。
 そして志恩がなによりほっとしたことが、弥生の色相の変化であった。
 医師免許を保持し、分析官として以外に健康管理も一任されている志恩は、監視官、執行官の色相を常時チェックすることが可能だった。 むしろそれが仕事であるのだが取り分け弥生のものだけは注視していた。 毎朝仕事始めは煙草を吹かしながら弥生の色相をチェックすることがいつしか習慣となっていた。
 体が繋がって以降、弥生の色相に僅かではあったが変化が見られた。 少なくともセックスで弥生が体だけでなく心も何かしら感じてくれていることが色相から分析できた。 この時ばかりは分析官でありながら仕事量が増えたとしても健康管理も任されていることに感謝したくなったくらいであった。
 更には肌を合わせる毎に弥生の色相は浄化傾向にあった。 そのことに気が付いた時、弥生から滝崎リナの存在も浄化されていくようにも感じたが、 彼女はそれを拒むが如く度々その影を志恩の前にちらつかせていた。
 実に不愉快であったが志恩は弥生のことを考えるといつも滝崎リナに辿り着いてしまっていた。



 立て続けに事件が勃発し慌しい日々を送る中、志恩は暫く弥生と顔を合わせられずにいた。
 その時、弥生の体調が思わしくないことは健康管理を行っている手前察知していたが、 本来の仕事である分析に追われメッセージを送る以外手が回らなかった。 ラボで仮眠を済ませる日々が続き自室に戻ることもままならない状態だった。
 弥生は「大丈夫です」とだけ返信してきたものの、優れない体調で任務を遂行し続けた結果、高熱を出し倒れてしまった。 周囲からも休むよう言われたのだが本人が至って平気だと言い張ったのだそうだ。
 いくら多忙であったとはいえ強制的にでも休むよう通達するべきだったと激しく後悔した。
 仕事の合間を無理から作って、自室で安静にしている弥生の許を訪れた。
 ノックをしても返事がなく、部屋へ入ると弥生はベッドで眠っていた。
 傍にあるスツールに腰掛けて弥生の寝顔を暫く眺めていたが、ふと手持ち無沙汰に思い白衣のポケットに手を入れて煙草を取り出した。 だが、すぐにそれを仕舞う。 病人の手前吸う訳にはいかない。それにここには灰皿がない。
 うっすらと汗が浮いている弥生の額に手を当てると熱い体温が伝わってきた。
 志恩は立ち上がると几帳面な弥生の性格が分かるきちんと折り畳まれた白いタオルを手に取り、 冷水に浸し軽く絞ってからその額に乗せた。
 すると弥生が目を覚ました。
「ごめん。起こしちゃったわね」
「冷たくて気持ちがいい」
 放っておけばまたすぐにでも眠ってしまいそうな、ぼんやりとした目で弥生は志恩を見上げた。
「ダメでしょ。こんなになるまで無理しちゃ」
 怒るより心配しているという想いを込めて優しく叱咤すると弥生は頷くように目を閉じた。
 眠ってしまったのかと思ったが不意に弥生はぽつりと言葉を発した。
「わざわざ、すみません」
「うん?」
「忙しいのに来てもらって……」
 志恩はベッドの端に座って弥生の前髪をかき上げるように撫でた。
「医師として来たんじゃないわよ。弥生のことが心配だから見に来たの」
 弥生の虚ろな瞳を見ながら志恩は言葉を続ける。
「恋人なんだから心配するのは当たり前でしょう。それとも弥生は私のことセックスするだけの関係だとでも思ってたの?」
 お互い告白するでもなく先に体で繋がってしまっていた。 だけれども決してそれだけの関係ではないと志恩は自覚していたし、弥生もそうであるとそうであって欲しいと思っていた。 散々セックスしておいて今更だが、今更過ぎるからこそ気持ちを確かめられないでいた。 ……もっともらしい理由を並べてみたものの実のところ弥生はまだ滝崎リナのことを恋人だと思っているのではないかという不安が 志恩の心の中にはあった。その疑心暗鬼が弥生の気持ちを確かめることを無意識にしても避けていたのだと思う。
 弥生が小さく首を横に振ったので志恩は安心すると同時に喜びを実感する。
「あっ、でも医師としてひとつ忠告しておきます。ニ、三日は絶対に安静にしておくこと。 その後、熱が下がっていたら復帰することを許可します。 はい、医師モードはこれで終了よ」
 今度は首を縦に振り頷いた。
「体の具合はどう?」
 体温ですっかり温もってしまった額のタオルを取ってひっくり返し、まだ冷えている部分で汗ばんだ弥生の首筋を拭いた。
「少しはマシになってきたように思う」
 気持ちよさそうにして弥生は瞼を閉じる。 弱っている弥生はいつもより従順で気だるい雰囲気が妙に色気を醸し出し艶かしく見えた。 こんな時に欲情してはいけないと志恩は声には出さず自制する。
「水が欲しい」
「分かったわ」
 志恩は氷を入れたコップに水を汲み弥生の体を起こしてそれを手渡した。
 弥生は水を半分くらい口にして、もういらないとばかりに志恩に返す。
「ごめんなさい」
「うん、何が?」
「手を煩わせてしまって」
 コップをベッドの傍の台に置き、ゆっくりと弥生の体を寝かせてブランケットを首まで被せた。
「こういう時は『ごめん』じゃなくって『ありがとう』って言ってくれた方が嬉しいわね」
 再びタオルを冷やしに行きベッドへ戻ると弥生は目を瞑っていた。
 そっと額にタオルを乗せる。
「ゆっくり休むのよ」
 山積みになっている仕事量を考え重い気分に襲われながら部屋を後にしようと背を向けた時、小さな声だったがはっきりと志恩の耳に届いた。
「ありがとう、志恩」



 その日を境に滝崎リナの影が一気に潜めた。
 そして些細ではあるが志恩を大きく喜ばせる出来事が起こる。
 弥生が復帰したと聞き自身の仕事も落ち着いてきたため終業後、様子を伺いに部屋を訪れた時であった。
 スーツの上着を脱ぎネクタイを緩め寛いでいた弥生に一通り体の状態を聞いた後、ふと部屋の中のある物に志恩は気が付いた。
「ねぇ、弥生。何これ?」
「何ってただの灰皿よ」
「いや、それは見たら分かるわよ」
 ベッドの脇の台に飾り気のない銀色の灰皿が置かれてあった。 見舞いに訪れた時には確かに存在していなかった。
「弥生は煙草吸わなかったわよね」
「ええ、そうよ」
「んふふ。じゃあ、どうしてあるのかしらぁ?」
 嬉しさの余り顔が綻んでしまうのが抑えられない。
「いらないなら別にいいわよ」
 弥生は拗ねたのか背を向けてしまう。緩めていたネクタイを外し無造作にベッドへ投げ捨てる。
「いえいえ、ありがたく使わせて頂くわ」
 背後から弥生の体を抱きしめた。
 弥生の部屋のベッドで初めて抱き合った後、その真新しい銀色の灰皿を手に白い煙を吐きながら志恩は至福のひとときを堪能した。



act.Vへ つづく
 







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