揺るぎない赤い焔   act.V




「志恩はバイセクシャルなのよね?」
 スタンドの仄かな明かりだけの静寂な部屋で、弥生の声が響く。
 一糸纏わぬ姿の志恩はベッドの枕を腰掛代わりに座り隣でうつ伏せになり寝転がっている弥生に目をやる。 薄暗い闇の中で、先程まで触れ合っていた弥生の白い肌がぼんやりと浮かんで見える。
 セックスの後の心地よい気だるさを煙草を吸いながら満喫していた。 志恩は煙を吐き出してから答える。
「そうよ。過去には男とも付き合ったことがあるわね」
 弥生は腕を枕代わりにし、うつ伏せのまま顔だけを志恩の方に向けていた。 じっとこちらを覗き込むように見つめるその瞳がもの言いたげに感じる。
 煙草を口に銜えたまま志恩は腕を伸ばし弥生のさらさらな黒髪を撫でた。
「それがどうしたの?」
「……別に。ちょっと訊いてみただけよ」
「そう」
 弥生は体を動かし、背を丸くして横向きになりまだ志恩をぼんやりと見つめている。
「弥生はさ、女の子が好きなのよね?」
「ええ」
「その気持ちも分かるわ。だって女の子って柔らかくて肌もすべすべで触っている方も気持ちよくなるものね」
 再び弥生の髪を撫でて、その手を頬、首筋を伝わせ一番柔らかい部分へと志恩はその気持ちいい感触を確かめるように指を滑らせていった。
 弥生が眉をしかめ顔を歪ませる。
 豊満な弥生のものを軽く包み込むように触りその柔らかさを実感してから手を引き、煙草の煙と共に言葉を吐き出した。
「うーん。でも弥生はこの頃、体を鍛えちゃってるからねぇ。これ以上は筋肉を付けないで欲しいところね。 女の子特有の柔らかさがなくなってしまうのは、厭よ」
 初めて体に触れた時よりも確実に弥生は筋肉の量が増えていた。
 元々、執行官になってからトレーニングはしていたものの、 弥生が本格的に体を鍛え始めたきっかけは『標本事件』で同僚の執行官であった佐々山が猟奇殺人の犠牲者になってしまってからであった。
 志恩が公安局へ配属されてからこれまでで最も凄惨な事件だった。 それ以降、志恩も弥生が出動する度に身の安全を強く意識するようになっていた。 弥生にも思うところがあったのか、トレーニングに力を注ぎだしていた。
「そんなに筋肉付いたかしら?」
 肘を曲げ弥生はその腕に力を込める。細く白い二の腕にうっすらと筋肉が浮かび上がる。
「ずっとその体を抱き続けているんだから、誰よりも私が一番よく分かるわよ。 でも、まぁ危険を伴う仕事であるのも知ってるしね。自分の命を守ることが出来るのは結局のところ自分だもの。 私は弥生の命が大事だし、体を鍛えること自体は悪いことだと思わないわ」
 煙草を灰皿に押し付けて弥生を見る。
「でも、これ以上はマッチョにならないでね」
 ウインクをして言う志恩に、わかったわと微笑みながら弥生は答えた。



『標本事件』が起こり、弥生が所属する一係は様変わりを余儀なくされた。
 執行官であった佐々山が殉職した他、そのお目付け役の監視官をしていた狡噛は潜在犯に落ち一係から姿を消すこととなった。 ただ狡噛はすぐに執行官としての適正が出たため復帰を果たすこととなる。 そして佐々山の変わりに新しい執行官として縢が配属されたが、監視官は宜野座ひとりとなっていた。
 適正判定が厳しい監視官と違い、執行官は比較的“代え”が見つかり易い。 だが執行官の“代え”がいくら存在していようが、志恩にとって弥生の“代え”はこの世に二つとない。
 志恩は弥生がそうならないようにと願うばかりであった。



「そうか、相変わらず何の手がかりもなしか……」
 志恩の城とも言うべきラボで、薄暗くモニタの灯りがぼうっと浮かぶ中『標本事件』以降、すっかりと変貌してしまった 狡噛と二人で煙草を吸いながら会話をしていた。
 監視官時代の狡噛は煙草など口にしなかったし、性格ももう少し砕けていた。 今はストイックになり過ぎているくらいだと志恩は感じていた。 だが、それほどまでに『標本事件』で佐々山を失ってしまったことが大きかったのであろう。 もし弥生がそうなってしまったら、と思うと狡噛の気持ちも痛いほど理解できた。 だからこそ志恩は未だに捕まっていない『標本事件』の黒幕を探るという狡噛の仕事以外の依頼を請け負っていた。
 何か少しでも黒幕に繋がりそうな情報を狡噛が見つけてきては分析してみるものの、 雲を掴むような状態が続き全く近付くことも出来ずにいた。
「ごめんね。今回もお役に立てなくて。でも引き続き探りは入れておくから」
「悪いな。無理言って」
「いえいえ。仲間だった佐々山くんの仇を取りたいって気持ちは私だって同じよ。 それに他ならぬ慎也くんの頼みだもの。気にしないで」
 狡噛とはもう長い付き合いだった。 志恩が公安局に配属された時にはすでに監視官として勤務していたため分析官としてのキャリアと同じだけの付き合いになる。 志恩は器用なくせに不器用な生き方を選ぶ生真面目過ぎるこの男が嫌いではなかった。
「じゃ、また何かあったら」
 狡噛は灰皿に煙草を押し潰すようにして火を消すと、右手を挙げてラボから出ていった。
 それと入れ替わるようじっと横目ですれ違い様に狡噛を見ながら弥生がやってきた。
「あら、弥生。いらっしゃい。ちょうど暇していたところよ」
 弥生の来訪を歓迎しながら志恩は灰皿に煙草を押し付ける。
「狡噛が来ていたみたいだけど……何、話してたの?」
 弥生はじっと見下ろすよう灰皿に視線を向けている。志恩が消した煙草の横には違う銘柄の吸殻が並んである。
「んー、ただの世間話よ」
 狡噛に口止めされている訳ではなかったが、あけっぴろげに『標本事件』の黒幕を追っていることを言うのは憚られた。 狡噛が言いふらされたくないと思っているだろうと志恩なりに察したからだった。
「ふーん」
 抑揚のない声でそれだけ言うと弥生はネクタイを緩め志恩の体を抱き締めた。 その腕に籠る力がいつもより強い。唇を重ねると弥生は性急に舌を絡ませてくる。
 そして、そのままソファでセックスをした。
 いつも以上に弥生が強く求めている感じがして志恩の体もそれに応えるように悦びを露にした。
 弥生が濡れた指をティッシュで拭い、それでもセックスの痕跡として残ってしまう匂いを隠すため志恩が普段から使っている香水を手慣れた動作で手首の内側に付ける。 それから下着を着け始めている時でも、志恩はまだ膣の痙攣が治まり切らずソファから起き上がることが出来なかった。
「狡噛とは、その……親しいの?」
 背を向けブラウスを着ながら弥生が訊く。
「親しい?」
 眩暈がするほどの快楽で頭が痺れ、志恩は弥生の質問の意図を読み取れなかった。ゆっくりと呼吸を整え、頭を回転させていく。
 そういえばセックスをする前にも弥生は狡噛のことを気にしていたと思い出す。
 弥生が狡噛を意識している? 恋愛として? いや、それはありえない。 弥生は女の子しか愛さないタイプなのだ。
 少しずつ覚醒していく頭の中で、パズルのピースがぴたりとはまるようにひとつの答えを導き出した。
 弥生は嫉妬しているのだ。
 そう考えると全て辻褄が合った。 先日セクシャリティを確認してきたこと。狡噛を意識していること。そして先程のセックス。
『標本事件』の黒幕を追うことに協力していたため、弥生の次に接点が多いのが狡噛だった。 どうやら弥生は自分が狡噛と頻繁にラボで会っていることに気付いており、関係を疑っているようだった。
 まだ体を起こす気力も体力も湧かなかったので、ソファに寝そべったままテーブルの上に置いてある煙草を腕を伸ばして取り火を着けた。 一息煙を吐き出し、口元が緩みそうになるのを懸命に抑えながら気持ちを一旦落ち着かせる。
 弥生は着々と手を休めることなく服を着ていっている。
「そうねぇ。親しいといえば、親しいかしら。かれこれ私がここに来てからの付き合いだし。 まぁ、弥生よりは長いわね」
 敢えて弥生が望んでいるであろう答えではなく、含みを持たせた言い方をした。 意地が悪いと我ながら思ってしまうが、いつも以上に求められる刺激的で甘美なセックスをこのまま容易く手放すことが惜しまれた。
「……そう」
 背を向けたままなので弥生の表情は分からない。 一体、今はどういう顔をしているのだろう。 いつもと変わらず無表情なのか。それとも少しはその端正な顔を歪めているのだろうか。
「じゃあ、戻るわ」
 ラボに訪れた時と同様にきっちりとスーツを着てネクタイを締めると弥生は何事もなかったかのような顔をして出ていった。
「ふふふ」
 ひとりになると志恩は声を出して笑っていた。
 本心を聞き出したいけれども踏み込みきられずにいる弥生をいじらしく可愛いと思った。
 そして嫉妬してくれたことが嬉しくて堪らなかった。ずっと自分ばかり不公平だと言いたくなるくらいに滝崎リナに嫉妬し続けていたのだ。 嫉妬は愛情の裏返しでもある。愛情がなければ嫉妬は生まれない。
 特別に愛の言葉を囁き合ったわけでもない。けれども今日はしっかりと弥生の愛情を感じた気がした。
 言葉なんて所詮は心が籠っていなくとも取り繕うことが出来るものだ。過去の恋愛でも志恩はその言葉に幾度か騙された苦い経験をしていた。 君が全てだよ、などと甘く囁きながら他に本命の恋人が存在していたという言葉を全く信用出来なくなるような恋愛もかつてあった。
 だが感情は違う。感情は嘘を付かない、付くことが出来ない。 その嫉妬という感情で弥生の愛情を認識し志恩は心も体もかつてない程の充足を感じていた。



 大きな事件や然したる変化もなく志恩自身も公安局全体でも比較的穏やかに月日は流れ、 ようやく一係に新しい監視官が配属されることとなった。
 志恩が初対面を果たしたのは弥生とラボでセックスをした直後だった。
 新任監視官の朱はまだあどけなく愛らしい外見とは裏腹に、 出動初日に執行官の狡噛をドミネーターで撃つという大胆な行動を取り面白そうな子だと志恩は思っていた。
 仕事の空きがあるいつもの昼のように志恩が食堂へ向かうと、その日、弥生はすでに同席している人物がいた。 新任の朱だった。朱は暗黙のルールである席の振り分けを知ってか知らでか潜在犯側で丸テーブルに向かい合って座り弥生と会話しながら食事をしている。 珍しい光景に遠巻きながら非潜在犯の幾人かがちらちらと朱を見ていたが、本人は気が付いていないのか全く意に介していない。 意外と無神経なのか。それとも肝が据わっているのか。 どちらにせよやはり面白い子だと志恩は再認識した。
 志恩はトレイを受け取るとその席へと向かった。 丸テーブル一卓に付き四脚の椅子があり、まだ二脚分空いているので右側に朱、左に弥生とその間に座り会話に入り込んでいった。
「はぁーい。一係の女子二人お揃いで、女子会かしら? 私も交ぜてぇ」
「いえ、仕事の話を……。まだ慣れないことが多くって。 ちょうどここへ来たら六合塚さんがいらっしゃったので色々伺っていたところです」
 朱はその性格を表すように真面目に返答する。 昼の休憩時間まで仕事のことを考えていたくなどないと志恩は思う。 朱は流石に監視官の適正が出るだけのことはあるのだなと、呆れながらも感心してしまう。
「オーケー、いいわよ。分析官である私にも何でも訊いて頂戴。特に弥生のことなら任せて」
 真剣に仕事の話など毛頭するつもりがない志恩はウインクをしながら茶化す。 弥生がうどんを食べる手を止めてこちらを見た。
「はぁ、六合塚さんですか……」
 茶化しついでに恋人宣言をしてみたつもりであったが、朱は大きな瞳を更に広げてきょとんとした顔をしている。 あぁ、この子は恋愛に疎いタイプだ、と察した。 分析官を長年勤めているためか志恩はすぐに人の分析まで行ってしまう癖がいつの間にか身に付いていた。
 弥生は表情こそ変わりはしないが、不機嫌そうにうどんを啜っている。 志恩が何故不機嫌だと気付けたのかは、いつもは上品に食べる弥生がテーブルに出汁を飛ばしながら雑に啜っているからだった。
「質問がないようなら、先に私からしちゃおうかな」
「あっ、はい。どうぞ」
「朱ちゃんは、恋人とかいないの?」
「えっ!?」
 全く想定になかった質問だったのか朱は素っ頓狂な声を上げた。弥生はそんな朱を箸を止めて見ている。
「そんな……恋人なんていませんよ。今はそれどころじゃありませんし」
 手をぶんぶん振って大仰に朱は否定する。志恩は質問を続け朱という人物を更に分析していく。
「へー。じゃあさ、どういう人が好みのタイプなの?」
「そういうのもあんまり……。よく分からないって言うか。うーん、多分今まで深く考えたことがないから分からないんだと思います」
 朱は言葉を選んで丁寧に意思の疎通を図ろうとしていることが伝わってくる。どうやら行動が大胆な割には話し方は慎重で繊細のようだった。
「ふーん。すると仕事が恋人って感じかしら?」
「あー、そうかもしれません。今はそれが一番しっくりくる感じですね」
「そっかぁ仕事が恋人なのね。うん、ならさ、その現恋人である仕事さんの相談にいつでも乗ってあげるわよ。 もし困ったことがあったりしたらいつでもラボにいらっしゃいな。暇な時ならお相手してあげるわよ」
「ありがとうございます」
 朱は律儀に頭を下げてお礼を言う。
「いえいえ。気にせず気軽に顔を出してくれていいからね。弥生なんてしょっちゅうラボに入り浸っているんだから。ねぇ」
 弥生に同意を求めるが、目も合わせず相変わらず出汁を飛ばしながらうどんを啜っている。
「そうなんですか。六合塚さんも唐之杜さんに何か相談に乗ってもらっているんですか?」
 弥生が咀嚼していたうどんを飲み込み、口を開け言葉を発しようとしたのを遮るように志恩が先に答える。
「そうよ。弥生の場合はね……そうねぇ主に体の相談ってとこかしら」
 一瞬朱は首を捻ったが、あー、と声を出す。
「唐之杜さんって健康管理もしているんでしたね。六合塚さんって意外と健康意識が高いんですね」
「もう、朱ちゃんったら本当に可愛いわぁ」
 朱の生粋の無垢さが愛おしくて志恩は思わずその頭を撫でてしまう。 それでも理解出来ずにぽかんとされるがままになっている姿が更に可愛さが増す。
 弥生が終始不機嫌であったことに志恩は気付いていた。
 弥生は朱を意識している。この日からすでに志恩はそのことに勘付いていた。
 狡噛に対しての意識とは全く違う。弥生は朱自身を恋愛の対象として意識しているようであった。
 それに対して嫉妬心が全く生じなかったかといえば嘘になるだろう。 だが大して気にはならなかった。朱自身が恋愛に全然関心がないという安心感もあったのだろう。 だけれどもそれよりも過去に捕らわれ眠りながら涙を流していたことを考えれば、多少の浮気心が出る今の弥生の方が余程健全だと思えた。


 狡噛が追っていた『標本事件』の黒幕であった槙島が絡む事件が、 朱が配属されてから立て続けに起こり公安局全体が慌しく殺伐としていた。
 朱も目前で友人を亡くすという凄惨な目に合わされながらも逃げることなくひたむきに監視官の職務を全うしていた。
 弥生は相変わらず時折朱を意識しているそぶりを見せてはいたものの、 乱発する物騒な事件に志恩にとってはその身の安全の方が心配であった。
 恐らく今の志恩にとって弥生との関係は、長年連れ合ったパートナーの感覚に近いのであろう。 たとえ弥生が少しばかり余所見をしようが必ず自分の許へ帰ってくる。年月を重ねいつしか志恩にはそう自信が生まれていた。 だがそんな志恩にもただひとつだけ心底恐れていることがある。 取り締まる側の弥生がいつしか出くわしてしまうかもしれない反社会活動を続けているであろう“あの人物”だ。 未だに確保もしくは執行したという情報は公安局に入ってきていない。
『槙島事件』が終息し、一係は再び様変わりをした。 征陸が殉職し、狡噛は逃亡、かつて志恩が公安局へ配属された時からの顔ぶれが消え、 更にはまだ若かった縢までもが行方不明と寂しくなってしまったが、まだ気持ちは割り切ることが出来た。
 もし弥生がいなくなってしまったとしても、自分はここで分析官を続けていくのだろうか。 自問自答してみるが続けていけるという確信は持てなかった。 むしろ続けられない確信の方が持てそうなくらいである。
 だが幸運なことに幾度となく危険な任務を掻い潜りながらも弥生はまだここにいる。
 弥生の過去には触れることが出来なかったが、ゆっくりと未来へ向かってこれからも共に歩んでいけるのだと志恩は思っていた。
 だがしかし、ついには恐れていた“あの人物”が絡んだ事件へと弥生は巻き込まれていくこととなる。
 厭な予感はあった。
 もうずっと久しく弥生の口から出てこなかったあの名前を聞いてしまった。
「……そうじゃないの、リナ」
 志恩の部屋のベッドで隣に眠っている弥生の呟きが聞こえてきた。
「弥生、今、何か言った?」
 いくらセックスの後の夢うつつ状態であったとしても聞き間違えはない。 けれども志恩ははっきりとは聞こえていない振りをした。弥生が何でもないとでも言って誤魔化せばそれで済ますつもりでいた。
 だが弥生は辛そうな顔をしたままその口から一言も言葉を発しない。 それどころか目の前にいる志恩の存在が見えていないかのように、別の何かを探し求めて部屋中に視線を巡らせていた。
 暫くしてようやく思い出したかのように、ごめんなさい、とだけ絞り出すように声を漏らした。
 謝罪は滝崎リナの名前を口にしたことの肯定を意味した。
 志恩の胸がずきんと痛む。 たとえ嘘を付いてでも誤魔化してくれることを望んでいた。今、この場に漂ってしまった滝崎リナの存在を否定して打ち消して欲しかった。 だけれども弥生は安易に嘘で取り繕うことが出来ない素直で実直な性格であり、志恩はまたそこが好きなところでもあったから複雑な気持ちになった。
 弥生は今にも泣き出しそうな顔をしている。 でも、志恩には今弥生が何を哀しんでいるのか理解出来なかった。
 彼女を思い出したこと? もう彼女に会えないと思い出してしまったこと? それとも私では計り知れないもっと他の何か?
 分からない。 全く分からなかったけれどもその哀しみを少しでも和らげてあげたいと、自分の存在を示すように弥生の体を抱き締めた。 私はここにいる。私があなたの傍にいるのだと想いを込めて。
 突如、鋭い音が鳴り響くき、音声通話が強制的に入る。
《シェパード1からハウンド2へ。お休みのところすみません。市民から公安局への通報がありました。 河川敷で身元不明の少女の遺体が発見され、緊急出動の要請が》
「分かりました。すぐに向かいます」
 弥生はスイッチが入ったかのように仕事モードに切り替わると、あっさりと志恩の腕をすり抜け振り返ることもなくベッドから去っていった。

 そして、弥生を過去へと引きずり込んでいく『箱舟事件』の幕が開く。



act.W へ つづく
 







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