揺るぎない赤い焔   act.T




 ―――これはシビュラにより導かれ、滝崎リナにより結ばれた二人の物語である。





 燻り始めていた気持ちに火が点いたきっかけはある映像だった。
 公安局に送られてきたホログラフィックメモリ。人工機能の検閲結果は『過激なポルノ』の映像。
 そこで分析官を勤める志恩は、人の目で判別するために幾度となく同じような内容の映像を目にしてきたが今回だけは特別だった。 これまでどのような内容のポルノであろうが別段何の感情も湧かず白々しく思えて冷めた目でしか見られなかった。 しかし今回の映像で初めて他人のセックスを見て感情が震えた。
 どうして今回だけは特別だったのであろう、と志恩は思考を巡らせる。 セックスをしていた人物のひとりが見知った顔だったからだろうか。 それとも全てを曝け出した激しいセックスを見せつけられたからだろうか。 或いはその両方か。
 このままこの映像の存在を抹消することも可能であったが、志恩は敢えてその人物に伝えることにした。 これをきっかけに深い接点を持つことが出来るかもしれない。その期待が胸にあった。
 映像でセックスをしていたひとりであり、執行官となってまだ日も浅い弥生をラボへ呼び出した。
 まだ数える程しか顔を合わせたことがなく、ましてや二人きりで会うなど初めてであったが弥生は志恩を憶えていた。
 映像の内容を『過激なポルノ』とだけ前置きをして弥生にそれを見せた。 敢えて弥生が一番乱れているシーンをモニタに映し出した。
「……性格悪いわね、あなたの元カノ」
 映像の送り主は弥生とセックスをしていた相手であることは明白であった。
「一生の不覚です」
 映像を目にしても表情ひとつ変えもせずに言ってのけた弥生に不服を感じはしたが、志恩は現在の状況が楽しくて仕方がなかった。
 この映像はネットにばら撒かれた形跡もなく公安局宛に送られてきただけだった。 つまりは元恋人である弥生への嫌がらせであろう。
 弥生は今回の件を執行官の目付け役である監視官に報告するかと心配したが、無論そんなことするつもりなど毛頭なかった。 弥生を困らせたい訳ではない。 それにわざわざ弥生が所属する一係を気まずい雰囲気にさせたくもない。その旨を弥生に伝えた。
「……ありがとうございます」
「これ、ひとつ貸しだからね」
 そう言いながら志恩はウィンクをして見せた。
「いつか貸しは返してね。気が向いたらでいいし、いつでもいいから」
「憶えておきます」
 志恩はそう言ったものの本気で貸しを返して欲しいなど思いもしなかった。 深い接点を持つ、その足がかりとなるきっかけを作ることに成功しただけで満足だった。



 志恩は恋愛が好きだった。基本的に人と接することが好きでもあるのだろう。
 シビュラシステムが統治するようになり色相が濁りやすい要因を避ける習性が多くの人に見受けられ、恋愛もそのひとつとなっていた。
 潜在犯落ちする以前から男女問わず恋愛をしてきた志恩はやはり色相が不安定であった。 潜在犯となり公安局で分析官を勤めるようなってからは、 色相を気にすることなく恋愛が出来るという意味では志恩にとって今の生活も悪くはなかった。
 だが潜在犯であるが故の制約もある。公安局から出ることが出来ない。 分析官であるため同じ潜在犯でも執行官のように外出する機会も殆どなくラボに篭りきりだった。 空をガラス越しでなく直接目で見たのはいつだったか、思い出すことすら難しいくらいだ。
 ここで恋愛するにおいて最大の問題は公安局内から出ることが出来ないため極端に出会いが少ないことだった。 ほぼ毎日同じような人たちとしか顔を合わせることがない。
 そんな中で新入りが来ることはそれだけでセンセーショナルだった。 更には弥生は志恩の好みの顔立ちをしており、シビュラの相性診断のお墨付きでもあった。 だからこそ今回の一件はまたとないチャンスだと思っていた。
 弥生のことは音楽に興味のない志恩であってもその存在くらいは知っていた。 大物女優や有名スポーツ選手など女性とのスキャンダルがゴシップ記事になっているのを目にしたことがあった。
 弥生も自分と同じで恋愛とセックスを楽しむタイプだ。それがまた志恩の心を弾ませた。
 仕事を終え、再びラボで弥生のポルノ映像を眺めた。
 志恩はまだ弥生が表情を崩した姿をこの映像でしか見たことがない。
 あの無表情の顔を自らの手で乱してみたい欲望に駆られながら、薄暗いラボで煙草をくゆらせていた。



 翌日、昼過ぎには一旦仕事の片が付き空き時間が生じたため、志恩は定期購読している電子ファッション雑誌に目を通していた。 空き時間はこうして自由に過ごすことが黙認されており、それが今の仕事も悪くないと思える要因のひとつでもあった。
 雑誌にざっと目を通してから、そこに掲載されている占い欄をチェックした。 『五月生まれ 恋愛運◎ ラッキーカラー赤 何事も積極的に進めよ』
 全てが思い通り上手くいくような気がして志恩は自然と口元に笑みを浮かべていた。
 赤いネイルとルージュそして白衣の下に赤いワンピースを纏い仄かに香る程度に香水を施して、 後は再び呼び出した弥生がラボを訪れてくることを待つだけだった。
「どうも」
 昨日と同じ格好で表情も寸分違わず弥生は現れた。 それはまるでそのまま昨日の続きと錯覚してしまう程だった。
「いらっしゃい、六合塚さん」
 志恩は足を組んで椅子に座ったまま弥生を迎え入れた。
「どう、ここの生活にはもう慣れたかしら?」
「はい。まぁ、それなりには」
「そう。それはよかったわ」
 志恩は弥生の無表情な顔を見つめていた。 何を言えば、何をすればこの表情が崩れるのだろう。
「……今日はどういった用件ですか?」
「ここの生活は特殊よね。公安局から勝手に出ることも出来ないし。まぁ、所詮は潜在犯だから仕方のないことだけど」
「そうですね」
「あなたはこの閉鎖的な空間での息の抜き方、もう見つけた?」
 言わんとすることを推し測っているのか無言のままでいる弥生に椅子から立ち上がり正面まで近付いていった。 改めて間近で見ても化粧を施してなくとも感心するほど弥生は端正な顔立ちをしている。
「単刀直入に言うわ。ねぇ、私と寝てみない?」
 弥生が初心ではないため今更そう言ったところで恥らわないことは分かってはいたが、 どう反応するか怖い気もあったが楽しみの方が大きかった。
 ほんの少し返答までに間があった。それからやはり表情を変えることなく弥生は言葉を発した。
「本気ですか?」
 志恩は一瞬戸惑った。
 相変わらずの無表情で弥生の無機的な瞳に強く問われている気がしたのだ。
 冗談で言っているのか、本気で言っているのか。 遊びなのか、そうでないのか。 それとも体だけなのか、気持ちのこもったものなのか。 本気だとすればどこまでのものなのか。 だが弥生の言葉はそのどれも当てはまるようでいて、どれでもないようでもあった。
 要は弥生の心を掴みきれないでいた。
 弥生の望むべき答えが「本気である」なのか「本気ではない」なのか分からない。 本気でないのなら拒絶されそうでもあったし、本気になってくれるなとでも言いたげでもあった。
 無意識に口元に笑みを作りながらどう返答すべきか考えていると先に弥生に言葉を紡がれる。
「遠慮しておきます」
「……そう、残念だわ」
「話はそれだけですか?」
「ええ」
「では失礼します」
 弥生が去りひとりになった志恩は椅子に座り煙草に火を点けた。
 紫煙を燻らせながら、何がよくなかったのだろう、どうして上手くいかなかったのだろう、と反省する。
 誘い方がよくなかったのだろうか。それとも弥生が恋愛とセックスを楽しむタイプだと勝手に勘違いしていたのだろうか。 ただ単に弥生にとって自分が好みではなかったのだろうか。もしかすると自分に魅力が足らなかったのか。
 明確な答えを導き出すことが出来ず、ただ自信だけを失っていった。
 自室に戻ってからも志恩はずっと弥生のことを考えていた。
 弥生が公安局へ配属されるきっかけとなった事件は志恩の記憶にもまだ新しかった。
 シビュラ公認芸術家だった弥生の当時の恋人が絡んだ反社会コミュニティのレジスタンス活動の制圧。 その件に協力した弥生は恋人と会い説得を試みたものの失敗に終わり取り逃したと報告されていた。 監視官である狡噛の報告書によると、弥生は潜在犯として矯正施設にいる間強く社会復帰を望んでいたという。 そのため色相が悪化しそうな捜査へは非協力的で執行官の適正があると伝えても拒んでいたそうだ。
 恐らく弥生は懸命に恋人のいる社会へと戻ろうとしていたのだろう。 だがその戻るべき社会から恋人はすでに逸脱していた。 そして再会した際に社会へ戻るよう説得したが受け入れられず、 弥生自身も社会へ戻る意味を失い、更には彼女の反社会活動を止められなかった自負の念から執行官へなる決意をしたのであろう。 分析官である志恩は弥生を分析する。
 嫌がらせとして別れた相手にセックスの映像を送りつけてくるような性格の悪い元恋人のことがまだ弥生の心の中には残っているのであろうか。
 丸二日、志恩は悶々と悩んでいた。 そして何故ここまで悩むのであろうか、ということさえ悩んだ。
 一旦火が点いてしまった気持ちを諦めきれないからだ。 そう気付いた志恩は三度弥生を呼び出した。
「どうも」
 やはり弥生は三度目も同じようにラボへ現れた。 今度はそれに安堵感が湧く。 これまでと変わらず誘いを断ろうとも、仕事以外で関わることを拒絶されているわけではないらしい。
「この間、言ったことだけれど……」
「寝る、話のことですか?」
「そう。あれね、訂正させてもらえないかしら」
 弥生はじっと窺うようにこちらを見ている。 無表情のため心を読み取ることが出来ない。 またその話かとうんざりしているようであり、興味を持って言葉の続きを待っているようでもある。 それとももしかすると感心すらないのであろうか。
「私と寝てみないって訊いたけど、そうじゃなくって……。私、あなたと寝てみたいの」
 表情の変化はなかったが弥生が一瞬眉毛をぴくりと動かしたことを志恩は見逃さなかった。
「私が、あなたと寝たいの」
 私が、という部分を強調して志恩は本心が伝わるようにゆっくりと言った。
 何か言おうと弥生が口を開きかけた瞬間、人差し指で唇を押さえて静止させた。
「返事は私の部屋に来るか来ないかで示して。 もしOKなら今晩部屋に来て。ダメなら、来なくていいからね」
 待っているから。最後に祈りを込めるようにそう言って志恩は追い出すように弥生をラボから帰した。
 ひとりきりになり煙草に火を点け緊張感と共に煙を吐き出した。 煙草を吸うたびに気持ちが落ち着いてくる。
 弥生は今晩来てくれるだろうか。 静止させてしまったがあの時弥生は何を言おうとしていたのだろう。 聞いておくべきだっただろうか。 いや、また断られたかもしれない。 さすがに二度も直接拒絶の言葉を投げかけられるのは精神的に堪えた。 だとすれば静止させて正解だ。 いや、それだと拒絶前提の話になっている。 受け入れてもらえる可能性も否定できないはずだ。
 来るだろうか、来ないかもしれない。 堂々巡りに考えながら志恩は気分が冴えないまま夜を迎えた。 普段より煙草の本数が増えている。
 一度は拒絶されているのだ。 来ない可能性の方が大きいであろう。 来なかった時の傷を最小限に抑えられるよう悪い未来を想定してはいたが、シャワーを浴び心と体の準備は決して怠らなかった。
 広い部屋の中ソファに腰掛けて、何もする気が起きず煙草を指に挟んだままただひたすら弥生を待ち続けていた。
 時間だけが過ぎていき灰皿に積もる吸殻の量に比例するよう諦めの気持ちが膨らんでいく。
 時計の針はもうすぐ午前零時を迎えようとしていた。
 最後にもう一本だけ吸ってから寝ようと新しい煙草を取り出そうと箱を持った時、部屋をノックする音が鳴った。
「どうぞ」
 煙草の箱をテーブルに置き、嬉々とした気持ちを抑制しながら平静に声を掛ける。
 待ち望んでいた弥生は昼と同じパンツスーツ姿だった。
「入って」
 ドアを開けたものの志恩が促しても弥生は一歩も部屋へ踏み込んでこなかった。 まるでそこには見えない壁でもあるかのようだった。
 まずい、と直感が働いた。 すぐさま頭より先に体が動いて入り口に佇む弥生の傍まで歩み寄っていた。
 志恩は弥生の腕を掴むと部屋へ引き入れ、そのまま唇を奪った。
 思いの他、弥生はあっさりと志恩を受け入れた。
 何故、こんな時間なのに昼と同じ格好でいるのだろう。どうしてなかなか部屋に入ってこなかったのであろう。 数々の疑念が浮かんだが、唇の柔らかい感触と絡まる舌の熱、唾液の味、息遣い、髪から漂うシャンプーの香料に思考より五感が鋭く働き始める。
 口付けを交わしながら志恩は頭の中であの映像を思い出し胸を高鳴らせていた。
 そして、手を引き弥生をベッドまで引き入れ肌を合わせた。



 セックスの後、煙草を吸って一服する習慣が志恩にはあった。
 枕を背もたれにして肌を晒したままベッドに座り、薄明かりの中で吐き出した煙が部屋へ広がっていく様をぼんやりと眺めていた。
 隣では体を丸めて毛布に包まり眠そうな顔をした弥生が志恩の指に挟まっている煙草を見ていた。
「あ……もしかして煙草嫌いだった?」
「別に」
 抑揚のない声でそう言うと弥生はもぞもぞと体を反転させ志恩に背を向けた。
 うーん、と心の中で志恩は唸っていた。
 分からない。 隣で背を向けて小さな寝息を立て始めた弥生のこと。 そして、先程その弥生と行ったセックスのこと。
 志恩は再び煙草を吹かしながら思い返してみる。
 何の変哲もないただのセックスだった。 気持ちよくなかったとか、そういうわけでは断じてない。 ただ今まで経験してきたものと代わり映えしなかったただそれだけのこと。
 一体、自分は何を期待していたのであろう。
 あの映像が脳裏に浮かぶ。 無性に悔しい気持ちが湧き上がってきた。 何が違うというのだ。経験?テクニック?
 弥生はセックスの最中、たった一言しか言葉を発しなかった。 どうされたい、どうして欲しいとも言うことなく、ただ裸で抱き合った時に「温かい」と言っただけだった。 どれだけ息を乱そうともそれ以外の言葉はその口から出ることはなかった。
 思い返しているうちに煙草がフィルター付近まで燃え尽きていたため、枕元に置いてある灰皿に押し付けた。 まだ眠気が起きなかったので更にもう一本新しいものを取り出し口に銜えた。
 隣で寝ている弥生に目を向ける。 長いストレートの黒髪がベッドに垂れて、毛布から白い肩がはみ出し見えていた。
 不意に寝返りを打ち弥生がこちらを向いたので、その寝顔を眺めていた。
 すると長い睫毛がふるふると震えたかと思うと涙が零れ落ちた。
 どきりと心臓が脈打ち煙草を口から落としていた。
 弥生は端正な顔を歪め眉間にしわを寄せ涙を流し続けていた。 初めて弥生が自分の前で感情を露にした気がした。
 指で頬に触れて弥生の涙をそっと拭った。
「ねぇ、なにがそんなに辛いの?」
 志恩の言葉は煙草の煙のように部屋に舞い、弥生の耳に届くことなく宙を漂い消えていった。
 放っておけない。放っておきたくない。志恩の心に明確にそう感情が芽生えた。
 落とした煙草を銜え直し、ライターで火を点けた。
 志恩の心に宿った火がいつの間にか大きな焔へと変わっていっていた。



 それからも志恩は積極的に弥生を部屋へ誘った。
 弥生はもう躊躇する様子は見せなかったが、初めての時と同じく涙を流しながら眠る姿は変わらなかった。
 そして五度目のセックスの時に涙の決定的な理由を知ることとなる。
 すでに志恩はセックスの後、煙草を吸いながら弥生の寝顔を眺めることが習慣となりつつあった。 その日も同じように弥生は涙を流した。
 自分が見ていない夜も涙を流しながら眠っているのだろうか、と考えながらその粒が零れ落ちるのを眺めていると弥生の唇が小さく動いた。
「……リナ」
 寝言であったが間違いなくそうはっきりと聞こえた。
 まさか、というよりもやはりそうであったかと志恩は納得するような思いだった。
 弥生が公安局へ来るきっかけを作った相手だ。 そしてあれ程のセックスをしていた相手でもある。 そう易々と忘れられる相手でもないのであろう。
 滝崎リナ。
 志恩は弥生の元恋人である彼女の幻影に対抗心を燃やした。



act.Uへ つづく
 







戻る