目を惹くもの



 「花の世話は結構だけれども、今にその花は黒く染まるかもね」
 それは以前ミレイユに言われた言葉だった。
 今、私の目前にあるその花の葉が、黒ではないけれども褐色に染まっていた。染まった葉は1枚の1部分に過ぎなかったけれども、他の葉も明らかに様子がおかしかった。あんなにも溌剌としていたのに、今では萎れそうになっている。
 ミレイユの言ったことは正しかったのだ。
 この花はやがては全ての葉が褐色になり、最後には黒く染まる。
 私が水を与え続けたばかりに、こんなことになってしまったのだ。
 どうしよう。
 今からでもミレイユに水やりを代わってもらえば、元の姿に戻ってくれるだろうか。
 きっとミレイユがこの状態を見たら、やっぱりね、と言うのだろう。
 私には花を育てることすらできもしないのだ。人の命を奪うことは、いとも簡単にできてしまうというのに。
 「おはよう」
 突然、背後から声を掛けられ、驚いて手にしていた水の入っているコップを床に落としてしまった。コップは音を立てて砕け散った。私の心と同じように。
 「何やってるのよ」
 ミレイユが屈み込んで割れたコップの破片を拾い始めた。
 「あっ、ごめん」
 慌てて私も拾おうとして、破片が手に刺さった。
 「痛っ!」
 右手の人さし指の先から、赤い血がにじみ出てきた。
 ミレイユがため息をついてから再び、何やってるのよ、と同じ言葉を口にした。
 「ここはあたしが片付けるから、あんたは手当てをしてきなさい」
 「・・・うん。ごめん」
 私は力なく立ち上がって、キッチンに向かった。
 水道で血を洗い流した。まだ少し赤い血が少しにじんできた。
 赤い血。この赤い血も、いつかは黒く染まるのではないだろうか。私の周りのもの、私も含めて全てが黒く染まっていく。そんな風に思えてきた。事実、花が褐色に染まってきている。
 ティッシュで水気と血を拭い絆創膏を張り付けて戻ると、コップの破片もこぼれた水も綺麗に片付けられ元通りになっていた。ただ、花だけは褐色に染まったままだった。
 「ごめんね。ミレイユ」
 今日の私は謝罪してばかりだった。
 「花が・・・私のせいで花が・・・」
 ミレイユは横目で花を見てから、私に視線を向けた。
 軽蔑の眼差しで見られているような気がして、私は目を合わすことができず、うつむいた。
 「これ以上、花が黒くならないように明日からはミレイユが水やりを・・・」
 「そうね。あんたのせいみたいね。花が枯れそうなのは」
 分かっていたことでも、ミレイユに直に言われると胸が軋んだ。
 「あんた、毎日水あげていたんでしょう?」
 「うん」
 「だからよ。あげればいいってものじゃないのよ。適度に、花が望んだ分だけあげればいいのよ。この様子じゃ、根腐れを起こしかけているわね、きっと」
 「根腐れ・・・?」
 「まさか、あんた本当に黒く染まると思っていたの?」
 「・・・うん」
 視線を上げてミレイユの顔を窺うと、微笑みを浮かべていた。
 「そんな訳ないでしょう」
 呆れたような言い種だった。
 確かに、水を与える人物によって花が黒く染まったりするなんてこと、あり得る訳がない。少し考えれば分かりそうなことだった。
 「そうだよね」
 ほっとして肩の力が抜けていった。けれど、まだ気になることがある。
 「この花、元に戻る?」
 「そうねぇ、これ以上水をあげなければ戻るかもね。ちょうど明日からパリを離れるし、帰ってきた頃には少しは元気になってるんじゃないかしら」
 「え?」
 「仕事よ、仕事。昨日の晩、言ったでしょう」
 「・・・あっ」
 「しっかりしてよね」
 花のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。



 「やっぱり自分の部屋が一番ね。帰ってくると、ほっとするわ」
 仕事を終え、アパルトマンに戻ってきた時のミレイユの第一声だった。
 ちょうど私も同じ気持ちを抱いていた。
 けれど、ミレイユの『自分の部屋』という言葉が引っ掛かった。ここはあくまでミレイユの部屋であり、私は強引に押し掛けてきた居候に過ぎないのだ。だから、同意の言葉を口にするのは控えた。
 私は荷物を置くと一目散に花の元へ向かった。
 褐色に染まった葉は元には戻らなかったけれども、生き生きした感じは蘇っていた。
 「よかったわね」
 同じく花の様子を見にきたミレイユが言った。
 「うん」
 本当によかった。
 この花だけは枯らしたくなかった。
 初めてこの部屋に訪れた時、一番最初に目に入ってきたのがこの花だった。
 青々としなやかに伸びた葉の、誰もが目を惹くその誇らしげな姿は、どこかミレイユと似ているような気がしていた。



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おまけ