断ち切れない黒い糸


 いくら待ってもシルヴァーナからの連絡はなかった。日付けが変わっても、電話の一本すらない。
 シルヴァーナのことが分からなくなってくる。
 あたしが会いに行けばいつも快く受け入れてくれる。けれどシルヴァーナから出向いてくれたのは、最初の一度だけだった。もっとも、あたしの部屋へ来訪されると霧香と顔を合わすことになり困るのだけれども。それでも、電話の一本くらいは掛けてきて欲しかった。
 会えなくて身を焦がしているのはあたしだけだろうか。
 2日前にパリの街を肩を並べて歩いたことが、もう遠い昔のように思える。
 あの時に買えなかったオレンジを、今日霧香と買い物に出かけた時に買ってきて、夕食後に食べた。
 どうしてだろう。あの時はおいしそうに見えたのに、一口かじってみても味なんて全然分からなかった。
 ベッドに入ってもシルヴァーナのことが頭を離れず、なかなか寝つけなかった。
 心も身体も渇き切っていた。このままでは涸れてしまうくらいに。
 せめて喉くらいは潤してあげようと思い、起き上がると、霧香が声を掛けてきた。
 起こしてしまったのだと思い、ごめん、と謝ると、突然手首を掴まれ強く引っ張られた。バランスを崩してあたしはベッドに倒れ込んだ。
 一瞬のことで何が起こったのか分からなかった。気付いた時には上に霧香がいて、あたしは手首を押さえ付けられて身動きが取れない状態になっていた。
 「何、どうしたの?」
 暗くてはっきりと霧香の表情は見えなかったけれども、何か尋常ではないことは雰囲気から察しが付いた。
 霧香が顔を近付けてきた。キスされようとしているのだと気付いて、慌てて顔を背けた。けれど霧香は執拗に唇を寄せてきた。あたしは意地でもかわし続けた。
 「ちょっと、やめなさいよ!」
 何度そう言ってあがいても霧香は解放してくれず、今度は首筋に唇を着けてきた。少しづつ唇を下へ滑らせていき、鎖骨を左右とも舌でなぞられた。
 汚らわしい気がした。シルヴァーナにさんざん弄ばれたあたしの身体を霧香に触れて欲しくなかった。霧香を汚してしまうように思えた。
 手が解放されたので、この状況を打破すべく霧香を押し退けようとしたけれど簡単には引き下がってはくれなかった。あたしの身体に手を伸ばそうとしてきたので必死に抵抗した。その時に爪が霧香の頬を掻いてしまい、あたしが一瞬怯んだ隙に胸ぐらを掴まれシャツを引き裂かれた。ボタンが弾け飛び小さな音を立て床を転がっていった。
 力任せに再びあたしは押さえ付けられた。
 あたしは抵抗するのを諦めた。
 霧香がしたいようにすればいい。ここまで霧香を追い込んでしまった責任を感じていた。自分のことで頭が一杯で、あたしには霧香のこと考えてあげる余裕がなくなっていた。霧香が不安がっていたことを知っていたにもかかわらず。
 霧香に性的に触れられることへの嫌悪はまだ残っていたので、極力顔を見ないようにした。
 あたしの手を解放しても霧香は触れてこなかった。それどころか、あたしの身体から降りていった。
 霧香はベッドの端に身体を丸めて座っていた。小さな肩が震えているように見える。
 何を言ってあげればいいのか言葉が見つからなかったので、ひとまずキッチンに向かった。そして当初の目的だった喉を水で潤した。
 あたしの頭の中でひとつの考えがまとまっていた。
 シルヴァーナとはもう会うべきじゃない。
 いずれはどちらか選ばなければいけなかったこと。ノワールとしての生活か、シルヴァーナとの生活か。
 今のような中途半端な生活をしていたがために、霧香をあんなふうにまでしてしまった。このままでは両方とも失う結果になっていたかもしれない。
 どうせシルヴァーナからの連絡がないのだ。このまま放っておけばいい。
 あたしは絆創膏をひとつ持ってベッドへ戻った。
 「ほら、顔を上げなさい」
 霧香の前で屈み込み、俯いてる顔を持ち上げた。怯えて今にも泣き出しそうな目をしていた。
 やはり頬にかすり傷ができていた。その部分にそっと触れると霧香は顔を歪めた。
 傷に絆創膏を貼り、
 「さぁ、もう寝ましょう」
 と言ってあたしは立ち上がった。そしてボタンがなくなり、はだけてしまっていたシャツを脱ぎ捨てた。
 「あんたも脱ぎなさい。・・・いいから、早く」
 動こうとしない霧香の服を少々強引に引き剥がした。
 ベッドに入って霧香を抱き寄せた。
 人肌の温もり程、人を安心させるものはない。
 霧香は肩に力が入りまだ緊張してるようだったので、軽くゆっくりと背中を叩いてやった。すると、見る見るうちに落ち着いていくのが分かった。
 霧香が胸元に頬をすり寄せてきた。なんだか子供をあやしているような気になってきた。それにしては大き過ぎるけれども。
 「・・・ミレイユ」
 「何?」
 いつまで待っても続きの言葉が出てこなかったので顔を見てみると、すでに小さな寝息を立てて眠っていた。
 可愛い寝顔だった。とても殺し屋になんか見えやしない。
 不意に死人のように眠るシルヴァーナの顔を思い出した。もう二度と見ることはできない。
 寒気がして止まらなくなった。あたしは霧香を抱き締め、懸命にその体温を感じ取ろうとした。
 本当は怯えていたのはあたしの方かもしれない。



 翌日。
 あたしは霧香のために食事を作り、霧香と一緒に買い物に出かけ、夕食も霧香と一緒に外で食べた。
 極力何か話をするようにしていた。他のことを何も考えないでいいように。
 部屋に戻りメールチェックすると依頼がきていた。
 依頼人、ターゲット共にポルトガル在住だった。この仕事を引き受ければ、しばらくはパリを離れることになるだろう。あたしは迷わずに霧香に声を掛けた。
 「依頼よ」
 霧香があたしの横に立ち、モニタを覗き込んだ。
 「どうするの?」
 霧香のその言葉は、あたしがシルヴァーナとのことをどうするのか訊いているような気がした。もう決めたのだ。会わないと。
 「報酬も悪くないし、引き受けましょう」
 あたしは笑顔を作って答えた。
 「そう」
 霧香の表情が一瞬陰ったように見えた。気のせいですみそうなくらい微かなものだった。
 「明日出発しましょう。さあ、そうと決まれば荷造りね」
 手早く準備を調えた後、霧香の入れてくれた紅茶で一息付いた。
 あたしは今後の予定を考えていた。
 今回の仕事はポルトガル。ターゲットはその首都リスボンにいるとのことだった。リスボンといえば、やっぱりファド。この仕事が片付けば、ファドを聞きながらゆっくりとくつろいでくるのもいいかもしれない。
 「・・・ミレイユ」
 あたしは霧香の思い詰めた表情に気が付いていなかった。


最終幕へつづく

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