断ち切れない黒い糸
「私は、いいよ・・・」
「何?」
霧香は真剣な面持ちだった。何か重要なことを伝えようとしていることは分かったけれども、何のことか理解できなかったので、あたしは先を促した。
「あなたが、シルヴァーナのところへ行っても。・・・戻ってきてくれるのなら」
シルヴァーナという言葉に胸がドキリとした。
霧香が言った内容は理解できた。けれで、なぜ突然こんなことを言い出すのかが、さっぱり分からなかった。
一昨日「行かないで」と泣きそうな顔で引き止めたというのに、霧香は一体何を考えてるのだろう。昨日もあんなに怯えていたし、今だって強ばった顔をしているというのに。
「行ける訳ないじゃない」
「どうして?」
「今のあんたを放って行けないでしょう!」
あたしは今鏡を持ってきて、自分がどんな顔をしているのか見せてやりたい気になった。
霧香が大きく息を吐いた。すると、幾分か表情が落ち着いた。
「私はね、ミレイユ。約束さえ果たしてくれたら、それだけで・・・それだけで充分なの。だから、気にしないで行って」
「でも・・・」
「いいの、ミレイユ。無理、しないで」
あたしの反論を遮るように霧香が言った。
全く無理しているのはどっちなのだろう。ありありと笑顔を作ろうとしているのが分かった。
あたしは目を閉じて考えた。
今の霧香には何を言っても無駄だろう。せっかくここまで言ってくれてるのだ。最後にもう一度だけシルヴァーナに会って別れを告げてこよう。
「本当に、いいの?」
あたしは霧香に確認を取った。
「うん」
「・・・分かったわ。じゃあ、行くけど、本当に大丈夫なの?」
念のためもう一度訊く。
「うん」
あたしは立ち上がってコートを取りに行き、それを羽織った。そして、霧香の前に立ち、
「すぐに、戻るから」
と言い残して、部屋を出た。
「どうぞ」
シルヴァーナは普段と変わらず落ち着いた様子であたしを部屋の中へ招いた。その表情を見た時、あたしは明らかにがっかりした。シルヴァーナが寂しがっていることを、心の片隅で期待していた。けれどそうでなかったことが、あたしには都合は良かった。
あたしは部屋の中には入らなかった。ここで言うべきことを言って、すぐに戻るから。
なのに、あたしの口は何も言葉を発しなかった。口は開くのに、声が一向に出てこない。
「どうしたの?」
シルヴァーナがあたしの異変に気付き、声を掛けてきた。
あたしは自分の手をきつく握りしめて、何のためにここに来たのか今一度自分自身に問うてみた。
「・・・シルヴァーナ」
シルヴァーナの足元に向けて、ようやく声が出た。この勢いで最後まで言ってしまうつもりだった。
「あたし・・・あたし、もう・・・」
その先の言葉はシルヴァーナの口の中へと消えていた。
いけない、と思った。このままでは別れを告げるどころではなくなってしまう。振払おうとしたら、痛い程にきつく抱きしめられていてできなかった。
シルヴァーナの身体の体温が、絡み付いてくる舌が、あたしの思考力を奪っていった。
どれくらいキスを交わしていたのだろう。息苦しさと興奮とで目眩がしてきた。立っていられないくらいになった時に、ようやく唇が離れた。
腕を引かれて、あたしはふらふらと部屋の中に入った。
バタンと閉じた扉に背中を押し付けられ、再び唇を合わせた。
探るようにスカートの中に手が忍び込んできて、あたしの下着をずり下ろした。
即座に指があたしの中に侵入してきた。すでに湿り気を含んでいたので、何の抵抗もなく享受した。
「ミレイユ・・・ミレイユ・・・ミレイユ」
耳許で囁かれる熱を帯びた声と、指がもたらす快楽にあたしは酔いしれていた。
ともすれば膝が抜けてくずおれてしまいそうだったので、シルヴァーナの背中に手を回し、必死でしがみついていた。
シルヴァーナの指の動きが激しくなるにつれ、あたしの手にも力が入る。そして、絶頂に達した。
指が引き抜かれると、ついには床に座り込んでしまった。
シルヴァーナの右手の指には、つやつやとあたしの体液が光っていた。あれは、あたしがシルヴァーナを求めている証拠。
その逆の手をシルヴァーナは差し出してきた。あたしの手は、その手を取っていた。
引き起こされると、そのままベッドへと向かった。
服を脱いで抱き合った。
シルヴァーナもあたしを求めていた。温かい液体が溢れている。その中へと、あたしは指を沈めた。
まるで離れたくないというかのように、シルヴァーナはあたしの指を締め付けてきた。
指の腹で壁に刺激を与えてやると、シルヴァーナは身体を震わせて喘いだ。その声がもっと聞きたくて更に指に力を込める。
腕がだるくなっても力を緩めずに動かし続けると、身体を大きくうねらせてシルヴァーナは昇り詰めた。
あたしの決心とはこんなに脆いものだったのだろうか。
シャワーを浴び、ベッドにいるシルヴァーナの前に立ってあたしの口から出てきた言葉は、仕事でパリを離れるということだった。
「だから、しばらくここには来れなくなるわ」
「そう」
寝巻き姿でベッドに腰掛けているシルヴァーナから、いつものように素っ気無い返事が届いた。
「・・・じゃあ、帰るわね」
扉に目を向け、一歩踏み出そうとした時だった。
「ミレイユ」
心臓が飛び跳ねた。
シルヴァーナに視線を向けるまでの僅かな時間に様々な思考が駆け巡った。
引き止められたら、どうする・・・どうしよう。
だめだ。はっきりと断らなければ・・・でも・・・。
シルヴァーナと視線がぶつかった。
静寂の中、シルヴァーナの耳にも届くのではないかというくらいに、あたしの鼓動が激しく打っていた。
そのまま10分くらい経過したような気がするけれど、本当はたったの2、3秒だったのかもしれない。シルヴァーナが口を開いた。
「どうして・・・」
口の中がからからに乾燥していた。息を飲んで、次の言葉を待った。
「どうして・・・ノワールに、殺し屋になったの?」
予期していたものとは似ても似つかない内容に、肩から力が抜けた。張り詰めていた気持ちが解けた。
今までシルヴァーナが訊いてこなかったので、あたしのことは余り話をしていなかった。
あたしは簡略に話をした。両親と兄が殺されたこと。そして霧香と仕事をするようになったこと。ソルダについては伏せておいた。
「・・・そうだったの。仇を取れるといいわね」
「ええ」
シルヴァーナからの後押しの言葉は少し意外に聞こえた。
シルヴァーナは自分の父親を自らの手で殺めているのだ。人の死、シルヴァーナにとっては自分の死もだろうが、そういったものに執着がないと思っていた。だから、あたしが復讐しようとしていることについて、もっと冷ややかな目で見られると思っていた。
ベッドからゆっくりと立ち上がり、シルヴァーナはあたしの側へやってきた。
あたしはその優雅な動作を目で追った。
端正な顔が近付いてきても、見つめ続けた。
唇が触れ合った。もう何度も感じた柔らかくて温かい唇。
軽く触れただけで、それは離れた。そしてシルヴァーナは、
「おやすみなさい」
と、微笑んで言った。イントッカービレと呼ばれていた時のシルヴァーナからは想像もできない程穏やかな顔だった。帰るのが惜しくなってしまうくらいに。
「おやすみ」
あたしも笑顔を返した。そして、シルヴァーナの部屋を出た。
ビリヤード台にうつ伏せて眠っている霧香の姿を見ると、罪悪感に苛まれた。夜はもう肌寒くなってきたというのに、タンクトップにショートパンツという出立ちでいた。
すぐに戻ると言ってながらあたしは・・・。
「ごめんね」
小さな声で呟き、霧香の漆黒の髪に手を伸ばした。
飛び跳ねるように身を起こした霧香は、このまま投げ飛ばされるのではないかと思う程の勢いであたしの手首を掴んだ。
「こんなところで寝てたら、風邪引くわよ」
霧香は黙ったまま、あたしを見上げていた。手首を掴んだまま。
「・・・寂しかった?」
この言葉は本当は霧香ではなくシルヴァーナに訊いてみたかった。けれど本人を目の前にすると言うことができなかった。なのにどうしてか霧香にはすんなりと訊くことができる。
霧香は答えなかった。その代わりにあたしの手首が痛んだ。霧香が強く握りしめてくる。これは霧香の心の痛みなのだろうか。
「手」
骨が悲鳴を上げそうになり耐えきれずにあたしは告げた。
「え?」
霧香は自分が手に力が入っていることに気付いていないようだった。
「あ、ごめん」
離されたあたしの手首はみるみる赤く染まっていった。
「ちゃんとベッドに入って寝なさいよ」
そう言ってあたしは霧香から逃げるように浴室に向かった。
翌日、パリからポルトガルのリスボンへと飛んだ。
仕事は思いのほか順調に片付いた。
シルヴァーナにパリを離れることを告げてこれたのが良かったのか、仕事は仕事と気持ちの切り替えができていた。
リスボンへ着いて5日目で仕事が終わり、その日のうちにパリへ戻った。
あたしは迷っていた。
シルヴァーナに会いに行きたかった。無事仕事が終わって戻ってきたことを伝えたかった。電話番号を知らないあたしは、直接会って伝えるしか方法がない。
けれど、霧香が行って欲しくないと思っていることは、痛い程分かっていた。
迷った末にあたしは真正面から、シルヴァーナに会いに行っていいかと訊いた。勿論少しでも厭な顔を見せればやめるつもりでいた。
しかし霧香はすんなりと了承した。
不思議に思いながらも、あたしは部屋を後にした。
いつものように扉をノックしても応答がなかった。
まだ寝ているという時間でもない。それに、今までこの時間に訪れて不在だったことは一度もなかった。
怪訝に思いながらノブに手を伸ばすと鍵は掛かっていなかった。
「シルヴァーナ?」
中に入ると真っ暗だった。電気を付け、見渡せど気配はない。
「ねぇ、シルヴァーナ。いないの?」
浴室、トイレを覗いてもどこにもいない。
だんだん焦りが生じてきた。
この部屋以外にシルヴァーナが行きそうなところはどこも検討が付かない。
手のひらに汗がにじみ出てくる。
懸命に何度も部屋中を見回した。
シルヴァーナがいないということの他に何かが違っているような気がして、くまなく目を凝らした。
もともと殺風景な部屋だった。けれど、何かが違う。
ベッド、テーブル、キッチン、冷蔵庫・・・。
「あっ!!」
テーブルの上に本がない。いつ来た時でも3冊きちんと重なって存在していた。それが今なくなっていた。
本以外にもこの部屋はすでに生活感を失っていた。2、3日はこの部屋に誰も存在していなかったのだろう。部屋の空気はこもっているし、キッチンの流しも浴室も乾燥し使った形跡がないことに気付いた。
本当にシルヴァーナがここに住んでいたのだろうか。そう思ってしまうくらいに、シルヴァーナの私物が何ひとつなくなっていた。
それが意味することはひとつしかない。
シルヴァーナはここを出て行った。そして、もう戻ってはこない。
あたしはシルヴァーナに捨てられたんだ・・・。
頼り無い足取りで、誰もいなくなった部屋を出た。歩いているような気もするし、宙に浮いて漂っているような感じもする。気が付いた時には自分の部屋の前にいた。
中に入ると、せきを切ったように涙がこぼれ落ちてきた。もう止めることはできなかった。屈み込んで一頻り泣いた。
「ミレイユ?」
涙でにじんだ視界に心配そうにあたしを見る霧香がいた。霧香には話しておかなくてはいけない。
「シルヴァーナが・・・シルヴァーナが、いない」
どうしても泣くことをやめられず、声が震えて上手く喋ることができなかった。
「いないって・・・どこかに出かけてるだけじゃ」
そうであって欲しい。けれど、あたしにはもうそうでないことが分かっていたので首を横に振った。
「パリには、もう・・・いない」
どこにいるかも分からない。もう会うことはできない。
シルヴァーナがあたしを捨てたのではなかった。あたしが捨てられなかったのだ。ノワールとしての生活を。そして霧香を。
地位も名誉も全てなげうってシルヴァーナはパリへ来た。そして、待っていた。同じようにあたしが全てを捨て去るのを、いつも両手を広げて。だからこそあえてシルヴァーナはあたしに何も言わなかったのだろう。
なのにあたしは最後に会った時に、仕事でパリを離れると話した。それは、現状を捨てないと言ったのと同じこと。
シルヴァーナにはそれが受け入れられなかったのだろう。そういう人だった。自分の意に反することは断固として拒絶する。
一体、シルヴァーナはどこに行ったのだろう。もうコ−ザ・ノストラへは戻れないだろうに。
顔を上げると、霧香も泣いていた。
あたしはシルヴァーナの行き先を知っていたとしても追いかけては行かなかっただろう。
完
最後まで目を通してくれた人。応援して下さった方。
本当にありがとうございました。
これにて終幕です。
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次の作品は・・・まだ、決まってません。
また連載という形式になるのか、単発になるか・・・。
ですが、ミレイユさんと霧香さんのあったかーい話になることは確実です。