断ち切れない黒い糸
「今から行くわ。・・・じゃあ」
あたしはそう言って電話を切った。相手はシルヴァーナだった。電話の内容は居場所を告げるもの、ただそれだけだった。「会いたい」とも、「待ってる」ともなく、後は沈黙のみ。
「ちょっと出かけてくる。遅くなるかもしれないから、先に寝てて」
あたしはコートを羽織りながら言った。
「ミレイユ!」
振り返り呼びかけてきた霧香を見た。深刻な顔をしている。
その表情に、霧香があたしとシルヴァーナの関係を知っているのでは、と思えた。そして、これからシルヴァーナのところへ行くことも。
けれど、どこで知りうるのだろうか。昨日帰りが遅かったことが、あたしの心に引っ掛かった。
「・・・いってらっしゃい」
その頼り無げな語感からして、確信した。霧香は知っている。
ひどく後ろ髪を引かれる思いをしながら、部屋を後にした。
電話で伝えられた場所は、徒歩10分で行けるアパルトマンの一室だった。
扉をノックするあたしの手が震えていた。ここにシルヴァーナがいる。そう思っただけで、あたしの胸は高鳴っていた。
扉が開くと、シルヴァーナが姿を現した。
「どうぞ」
あたしは抱きつきたい衝動を抑えて、促されるままに中に入った。
部屋は至って簡素なものだった。装飾品など一切なく、生活に必要な、ベッド、テーブル、キッチン、冷蔵庫しか目に付かない。ただひとつ、テーブルの上に本が3冊置かれていることを除いては。
「座って。何か飲む?コーヒー、紅茶、後は余りいいものじゃないけど赤ワインもあるわ」
「じゃあ・・・コーヒー」
コートを脱いで、椅子に座り、あたしはキッチンに立つシルヴァーナの後ろ姿を眺めていた。
今となっては、あんなにもシルヴァーナのことを恐れていたのが嘘のように思える。
コーヒーを入れてテーブルに戻ってきたシルヴァーナが、あたしの向いに座った。
こんな風に穏やかに向かい合うことが、幼い頃に初めて会ったあの時以来だったので、あたしは妙に緊張してしまった。
何か話さなければと思い、コーヒーを一口啜ってから、
「いつ、パリに来たの?」
と、訊いてみた。
「昨日よ」
昨日といえば、あたしの部屋に来た日だ。パリに到着してすぐに、あたしのところへ来たということだろうか。
「どうして・・・パリに?」
「どうしてだと思う?」
質問を質問で返された。あたしはその答えが聞きたかったのに。
「・・・仕事?」
仕事ならばホテルに宿泊するはず。わざわざアパルトマンに滞在したりはしない。
そう分かっていながらのあたしの問いに、シルヴァーナは笑って首を横に振った。
「コーザ・ノストラからは、もう離れたわ。今は何も仕事はしていない」
それを聞いてもあたしは大して驚かなかった。ある程度は想像していたから。それに、あたしが聞きたいことはそんなことじゃない。
「だったら、どうして・・・なぜ、パリに?」
もう一度縋るように訊くと、シルヴァーナは立ち上がり、あたしの側にやってきた。
「ミレイユ」
それが答えなのか、それとも只の呼び掛けなのか、あたしには判別できなかった。
両手があたしの頬を包み込むと、唇が降りてきた。
言葉を望むことは贅沢なことなのだろうか。
こうやって唇を合わせていれば、昨日のようにセックスすれば身体は満たされる。けれどあたしの心は、たとえ陳腐な言葉でもいいからたった一言を求めて飢えていた。
昨日にしても、今日の電話でも、今も何も言ってはくれない。
「あなたはどうしてここに来たの?」
逆に質問され、あたしは戸惑った。
シルヴァーナが呼びつけた訳ではなかった。あたしは自分自身の意志でここに来たのだ。会いたかったから。それに、昨日のようにセックスしたかったから。
意地悪な問いかけに、あたしもキスで返した。舌を絡め、濃厚な口付けを交わした。
服を脱ぎ捨て、ベッドへと転がり込んだ。
あたしは積極的にシルヴァーナの上になった。昨日は一方的に味わわれただけだったので、今日は思う存分施したかった。
真っ先に傷跡が目に付いた。
昨日シルヴァーナが言ったように、これがあるからこそ今のあたし達があった。あたしはあの時刺したからこそ自分の気持ちに気付いたのだ。それにシルヴァーナも恐らくはそうなることを望んでいた。
あたしは慈愛を込めて、傷跡にそっと口付けをした。
それから狂おしい程の口付けを交わし、シルヴァーナの身体中にペッティングを施した。
今まで聞いたことがない切ない声で名前を呼ばれる度、あたしの身体は熱くなり濡れていった。
3度頂点へ導き、あたしは手も口も疲労を感じていた。身体をぴったりと合わせて、シルヴァーナが息を整えていくのを耳もとで聞いていた。
不意に身体が反転させられた。そして、あたしは返礼を受け快楽の渦へと引き込まれていった。
シャワーを浴び、髪を乾かして、自分の部屋へ戻った。
帰り際、霧香と会ったのか訊いてみた。シルヴァーナはさも関心がなさそうに頷き、聞かれてまずいことでもあるの、と言葉を付け足した。あたしは何も言うことができなかった。
シルヴァーナの口から引き止める言葉は何もなかった。結局あたしが、明日も来るわ、と言って出てきた。
部屋は灯りが着いたままだった。
霧香が起きて待っていたのかと思い、ベッドの側に行って、
「起きてるの?」
と、訊いてみたけれど返事はなかった。
着替えて、電気を消してベッドへ入った。
霧香は、あたしが帰ってこないと心配していたのだろう。実際、シルヴァーナが引き止めていたなら帰ってこなかっただろう。それにあたしはそうされることを望んでいた。
だから眠らずに待っていたのだろう。
霧香が寝返りをうった。痛い程の視線を感じる。
あたしは後ろめたい気持ちになった。
それからというもの、あたしは毎晩のようにシルヴァーナの部屋に通った。仕事をした日を除いて。仕事もパリを離れなければいけないものは、どんなに報酬が良くとも引き受けなかった。
シルヴァーナは相変わらず呼びつけもしなければ引き止めもしなかった。あたしが行きたいか行き、帰りたいから帰る。全ての判断はあたしに委ねられていた。
それは非常にもどかしかった。いっそのこと何もかもさらってくれれば、とさえ思った。
だけど実際そうなればノワールとしてのあたしは存在しなくなってしまう。ようやくソルダに近付き始めたというところなのに、今更後へは引きたくない。
それに何より霧香のことが気がかりだった。
相反する想いがあたしの中でせめぎ合っていた。
あたしはどちらかを選ぶことができず、中途半端な生活を送っていた。ノワールとしては仕事を殆どしていないし、シルヴァーナとは夜にしか会わない。
霧香といる時はシルヴァーナを想い、シルヴァーナといる時は霧香のことが頭をよぎった。ただ唯一、シルヴァーナとセックスしている時は純粋に彼女のことだけを感じることができた。だからあたしはシルヴァーナとのセックスに溺れていった。
そんな生活が2週間も続いた頃、あたしはシルヴァーナの隣で朝日を向かえた。
寝顔が余りにも無表情だったため、生きている感じがしなくて、その頬に触れてみようと手を伸ばしかけると、不意に瞼が開き紫の瞳があたしを捕らえた。
「おはよう」
シルヴァーナの口から声が発せられて、生きていることに安心し、手を引っ込めてあたしも、おはよう、と返した。
ついにこの時がきてしまった。
昨晩もいつものようにセックスした後、帰るためにシャワーを浴びていると、シルヴァーナが浴室に入ってきた。こんなことは初めてだった。いつもはずっとベッドにいて、あたしが帰る時もそこから見送ってくれる。突然抱きすくめられて唇を奪われた。ついさっきセックスしたばかりだというのに、あたしの身体はまた火照りだした。流れ出る水の音を聞きながらシルヴァーナの指を感じ、ベッド中で唇の愛撫を受けながらあたしは眠ってしまった。
あれはあたしを引き止めるためにしたことではないのだろうか、と思えてきた。都合良く考え過ぎだろうか。
初めてシルヴァーナの隣で向かえた朝。
まだ眠そうな目でゆっくりと瞬きをくり返している無防備なシルヴァーナの表情。穏やかな時間。このまま時が止まればいいのに、本気でそう思った。
けれど現実は刻一刻と流れていく。
帰らなくてはいけない。あたしの頭から離れない脅迫観念。
せめて朝ご飯くらいは一緒に食べてからでもいいよね。誰にともなく心の中で許しを乞う。
「シャワーかりるわね。後でご飯作るから一緒に食べよう」
顔を上下に動かしたきり、シルヴァーナの瞼は閉じられたままだった。
あたしは起こさないようにそっと起き上がって、浴室に向かった。
熱いシャワーを浴びながら霧香のことを考えた。
霧香はどうしているだろう。いつも眠らないであたしが帰るのを待っていたようだったけれど、まさか今日もそんなことをしてはいないだろうか。
あたしの口から自分でも驚く程の大きなため息が漏れた。
部屋にあるものは何でも自由に使っていいと言われていたので、薄紫色のバスローブを拝借し、濡れた髪のままキッチンに立った。
冷蔵庫を開けて驚いた。殆ど空に近い状態だった。
細い身体付きといい、普段食事をしているのか不安に思った。
金銭面では不自由していないと言っていた。退職金にと組織から存分に巻き上げてきたと、以前冗談まじりに話していた。
これでは手の込んだものを作ろうと思っていたけれど、プレーンオムレツに野菜サラダとマッシュポテト。それくらいしか作れそうにない。
品目も決まったことだし、調理を始めるために鍋に手を伸ばした。
「ひゃあ!」
思いがけず抱きしめられたので、素頓狂な声が出た。眠っていると思っていたシルヴァーナが、いつの間にかあたしの背後にいた。身体を擦り付けてくる。
「ちょっと、シルヴァーナ」
性的な接触のような気がして制止させようとした。あたしはこれからご飯を食べて帰らなくてはいけないのだ。
「あっ・・・」
耳たぶを噛まれた。熱い舌が耳の中に入ってくると、あたしの頭の中は真っ白になっていた。
シルヴァーナの指があたしの下唇をなぞると、口中に侵入してきた。その中指と薬指に舌を絡めて、あたしは夢中で吸い付いた。
いつの間にかバスローブがはだけていて、直に乳房を揉みしだかれていた。
あたしの口から指が引き抜かれた。名残惜しそうに透明な糸が引く。
あたしの息はもう上がっていた。
バスローブを剥がされ、素肌同士を重ねて抱き合って口付けを交わした。
テーブルの上に上半身をうつ伏せに倒された。冷たく堅い感触。
お尻を掴まれ左右に押し広げられた。そのまま次の行動がないことから観察されているのだと分かり、恥ずかしくて一層感じてきた。
存分に目で犯されてから、ようやく舌での愛撫が始まった。すでに液体が溢れ返っている入口から後ろの部分まで、丹念に舐め尽くされた。
愛撫が止まると、あたしは身体を返され仰向けになった。
あたしの足を肩に掛け、シルヴァーナは潤んだ瞳で見下ろしていた。
あたしの中にシルヴァーナが入ってきた。
指が動き始めると、あたしは我を忘れてシルヴァーナを求めた。
場所が場所なだけにいつもより興奮してしまったのか、あたしはすぐに昇り詰めてしまった。
「んんっ・・・」
指が抜かれた瞬間に声が出た。
シルヴァーナは今まであたしの中にいた中指と薬指を舐めていた。絡み付いている液体を、さもおいしいものであるかのように余すことなく丁寧に。
あたしの欲情はまだ治まっていなかった。同じようにシルヴァーナをあたしの手で頂点へ導かせたかった。
足が肩から外され、差しのべられた手に掴まり、あたしは身体を起こした。
「お腹がすいたわ」
そう言ったシルヴァーナの顔が余りにも子供じみて可愛く見えたので、思わず笑ってしまった。一瞬にして気持ちが萎えてしまった。
濡れている股の間をティッシュで拭い、バスローブを着せ、シルヴァーナはセックスする前の姿にあたしを戻してくれた。そして、浴室に姿を消した。
ようやくあたしは調理に取りかかり、でき上がった料理をテーブルに並べ、シルヴァーナが出てくるのを待った。
このテーブルには、いつ訪れた時でも本が3冊置かれてあった。カバーがついているため何の本かは分からない。
何気なくその本に手を伸ばしかけた時、シルヴァーナが浴室から姿を現したので中身を確かめることができなかった。
シルヴァーナはストールを羽織りいつものスタイルだった。あたしだけラフな格好でいるのは気が引けて、着替えておけばよかったと思った。
あたしが作ったものをシルヴァーナが口にするのを眺めていた。一緒に食事をすることが初めてなのに気付いた。そういえばいつも二人でいる時間はセックスばかりしていた気がする。
レタスを一口かじり、考えた。
霧香はちゃんとご飯を食べただろうか。まさか泊まることになるとは思ってもいなかったので、今日の食事の用意は何もしてきていなかった。自分で何か作って食べててくれればいいのだけれども・・・。
食べる手を止めて、シルヴァーナが表情のない顔であたしを見ていた。
あたしが今、霧香のことを考えていたのを見抜かれているような気がした。
シルヴァーナは何も言わず、再び食べ始めた。
気を悪くしたのではと心配になり、場の空気を変えるためにも、
「口に合う?」
と、訊いてみた。
笑顔を浮かべてシルヴァーナが頷いたので、あたしはホッと胸をなで下ろした。
「あなたの身体と同じくらいおいしいわ」
真顔で言われたので、あたしはどぎまぎした。ついさっき、このテーブルでセックスしたことを思い出し体温が一気に上昇した。フォークを持つシルヴァーナの手を意識してしまう。
「コーヒー、飲む?」
食べ終えたシルヴァーナがそう言って立ち上がった。
「・・・ええ、頂くわ」
それ以上、性的な話に繋がらなかったので、どうにかあたしの身体は鎮まってくれた。
シルヴァーナは何をするにしても、実に優雅な物腰だった。今のようにコーヒーを飲んでいる時も、セックスの最中でも、立ち上がる動作ひとつにしても。いつも側でこの人の仕種を見ていたくなる程に。
あと一口で目の前のコーヒーが終わってしまう。これを飲めば、あたしは帰らなくてはいけない。まだ、帰りたくない。もう少し一緒にいたい。
帰らなくてはいけないと決めたのは誰だ。それは、あたし。あたしが勝手に決めたことなのだから、少しくらい引き延ばしても構わないだろう。
あたしは残りのコーヒーを飲み干した。
「ねぇ、シルヴァーナ。一緒に買い物に行かない?」
パリの街並をシルヴァーナと肩を並べて歩くことは初めてだった。今日は本当に初めてづくしだ。
あたしはあの空に近い状態の冷蔵庫を一杯に埋めてから帰ることに決めた。
あいにくの空模様だった。青い部分は見えず、白い雲が一面を覆い尽くしている。どこかあたしの心と似ているような気がした。
せっかく一緒に外出したのだからこのまま真直ぐ買い物をして帰るだけでは勿体無い気がして、途中いろいろな店に寄り道をした。シルヴァーナは嫌な顔ひとつせず、むしろ笑顔でついてきてくれた。ブティック、アクセサリーショップ、靴屋、化粧品店。何も欲しいものは無かった。ただシルヴァーナと一緒に歩いていたかった。
河の見えるレストランで、少し遅い昼食を取った。出された料理の半分も、シルヴァーナは食べ残した。注文し過ぎたという程の量でもない。少食だから、と本人は言っていた。
「朝は残さず食べたのにね」
まだ食べているあたしがそう言うと、
「それはあなたが作ったから」
と、答えが返ってきた。そんな風に言われると、毎日作ってあげたくなる。いや、作りたい。毎日三食きちんと栄養のあるものを食べさせたい。でも、その想いをあたしは口にはできなかった。
これだけあれば優に1週間は暮らせるだろうというくらい食料を買い込み、店を出た。あたしが買い物に誘ったのだからあたしが勘定を持つと言っても、自分の物だからと言い切ってシルヴァーナは譲らなかった。だから、せめて荷物持ちくらいはと思い、一杯に詰まっている紙袋をあたしが抱えた。
しばらく歩いていると公園が見えてきた。その中を腕を絡めた恋人達が仲睦まじく歩いている。
「少し、歩く?」
あたしの想いを察してくれたのか、それとも同じ気持ちを抱いたのか、シルヴァーナが公園に目をやり訊いた。
あたしは答えの代わりに空いている方の手でシルヴァーナの手を握った。
緑溢れる公園の中を歩いていると、ここがパリではなくシシリアにいるような錯角に陥った。
シルヴァーナとパリの街を歩いて思ったのが、異様なまでにこの人がこの街に似合わないということだった。何が、ということははっきりとは分からなかったが、ただ雰囲気が合わないというのだろうか。あたしの中のイメージとして、自然の中にいるというのが強かったためだろうか。とにかく、街から排除されてしまうのではないかと心配になる程だった。
「荷物、重たくない?休む?」
「そうね」
腕は平気だったけれども、シルヴァーナと一緒にいれる時間が長くなるものなら、あたしは否定しなかった。
肩を寄せ合ってベンチに座った。繋いでいた手を指を絡めて握り合った。
シルヴァーナは物静かな人だった。口数が少ない。それに関して不満に思ったことはない。こうしてお互いの存在を感じ合いながら同じ時間を共有できるだけで満足だった。欲を言うなれば、あたしのことをどう思っているのかはっきりと聞かせて欲しかったけれども・・・。
ただ厭なことに、こんな時でもあたしの頭の片隅には霧香がいた。帰らなくてはいけないと思わされてしまう。
「そろそろ、行きましょう」
あたしは名残り惜しみつつもベンチに別れを告げた。
公園を出たところに露店が出ていた。様々な果物が置いてある中に、オレンジが一際目立っていた。鮮やかに色付いている。
「ねぇ、シルヴァーナ。あれ、オレンジおいしそうよ」
「え・・・本当ね」
シルヴァーナの手をぐいぐいと引っ張って露店の前に立った。
「いらっしゃい!本日のお勧めはオレンジ。とれとれ、ぴちぴち!おいしいこと間違いなし!!」
白髪混じりで小太りの店のおじさんが、勢いよく捲し立てていた。
オレンジ頂戴、そう言おうと口を開いた瞬間、顔が強ばった。
今あたしはこれを買って帰って夕食後シルヴァーナと二人で食べることを考えていた。荷物を置いたらすぐに自分の部屋に帰るはずなのに。
店に背を向け、あたしは歩き出した。
「買わないの?」
シルヴァーナの問いかけに、あたしは小さく頷いた。
あれは買ってはいけない物だ。万が一買って帰ったとして夕食後のデザートに二人で食べてしまうと、きっとその後はセックスになってしまい、あたしは帰る機会を見失ってしまうだろう。そうなれば恐らく2度と帰らなくなる。
小雨がぱらついてきた。やはり今日の空模様はあたしの心と同じだ。
「雨、降ってきたわね」
空を見上げてシルヴァーナが言った。あたしは黙って歩き続けた。
雨足が強くなってきたので、軒下に一時避難した。
「空が明るいから、すぐに上がると思うけど・・・」
バラバラと雨が打つ音に混じってシルヴァーナの声が聞こえた。あたしは俯いて地面に雨粒がはぜるのを見ていた。
これは報いの雨に違いない。ずるずると帰る時間を引き延ばしてしまったあたしへの。
雨に濡れた身体は、ノースリーブのあたしには寒さが応えた。雨の所為で気温が下がってしまったこともあるのだろう。それに風まで出てきた。コートを着てこなかったことを後悔した。
不意に温かい物があたしの身体を包んだ。
「これで少しはましでしょう」
シルヴァーナがストールをあたしに掛けてくれた。
身も心も温かさがしみ込んできた。目頭が熱くなる。
「ありがとう」
嬉しさの余り、あたしはシルヴァーナにキスをした。
往来の目を憚らない行動に気分を害していないか唇を離してから顔色を窺おうとしたら、背中に手が回され抱きしめられた。荷物が少し邪魔に感じたけれども、シルヴァーナの肩に顔を預け、その温もりを感じた。
この雨は恵みの雨だったのかもしれない。こうしてシルヴァーナと過ごせる貴重な時間を与えてくれたのだ。できることなら、もう少し降り続いて欲しい。
想いとは裏腹に、雨足は徐々に弱まっていった。そして5分と経たないうちにすっかりと上がってしまった。
あたしはそれに気付かない振りをしていた。
「雨、上がったみたいよ」
あたしの身体が解放された。当たり前のことだけれども、いつまでも抱き合っていることはできない。
濡れた路面を踏み締めながら歩き始めた。
「夕食、作っていこうか?」
冷蔵庫に買ってきた物を入れながら訊いたが、応答がなかったので振り向いてシルヴァーナを見た。
「・・・いいわ。食べていかないんでしょう」
そう言われてから自分の言葉が帰宅を示唆していることに気が付いた。どうせ帰るつもりだったのだからそれでいいのだけれども、こんな形で言い出すことになったのは何となく厭だった。けれど一度口にした言葉は取り消せない。
「じゃあ、今日はもう・・・帰るわね」
冷蔵庫の扉を閉め、あたしはシルヴァーナの瞳を見つめながら言った。
「そう」
返ってきた言葉はそれだけだった。もう一言欲しくてそのまま見つめ続けたけれども何も発せられることはなく、結局またあたしが、明日も来るわ、と言って出てきた。
「・・・・・」
ベッドにいた霧香を見て、あたしは声を失った。
元々覇気が余りなかったけれども、今の霧香は全くもって生気を失っていた。正しくもぬけの殻。見ているのが痛々しい程だった。
どう声を掛けていいものか分からなかった。
霧香がこうなってしまった原因は明らかにあたしにあった。帰る時間を引き延ばしてしまった報いはこんなところでやってきた。
のそのそと霧香が起き上がった。あたしの方を見た気がしたけれども気付いていないようだった。それとも見えていないのだろうか。
「ただいま」
やはり遅くなったとはいえ帰ってきたのだからこう言うべきだろう。
「あ・・・」
霧香がようやくあたしを視界に捕らえた。
「ご飯、ちゃんと食べた?」
今朝も気になったことを訊いてみた。今の状態からして摂取していない気がしてならない。
霧香は何も答えなかった。沈黙は否定を意味していた。
「まさか、朝から何も食べてないの?」
「・・・忘れてた」
どうしてこうなのだろう。霧香もシルヴァーナにしても、食べるということに執着がなさ過ぎる。
シルヴァーナは少食過ぎるし、その上普段も食べているのか分からないといった状態だった。一方の霧香は、食べるという行為すら忘れてしまう程だ。あたしが見ていないと二人とも餓死してしまいそうな気がしてくる。
あたしの口からため息が漏れた。
「今から作るわ。待ってて」
「・・・行かないで」
か細い小さな声だったけれども、確かにそう聞こえた。
昨日あたしの帰りが遅かったことが、いけなかったのだろう。今まで一度も引き止めることをしなかったのに、とうとう霧香の口からその言葉が出てきた。
今夜は行くのを止そう。シルヴァーナに会いたいけれども、今の霧香を一人にしてまで行く気にはなれなかった。
コートを脱いでクローゼットにしまい、ビリヤード台の前の椅子に座ってパソコンを立ち上げた。ここ数日依頼のチェックすらしていない。
3件仕事依頼のメールが届いていたけれど、とても仕事をする気分にはなれず中身を見ないまま削除した。
「お茶、入れようか?」
霧香の表情が幾分か和らいでいたことに安堵し、あたしは頷いた。
キッチンに霧香が姿を消すのを見送り、パソコンの電源を落とした。
気が付くとシルヴァーナのことを考えていた。
今晩も訪れることをあたしはシルヴァーナに告げていた。行かないことでシルヴァーナから連絡がくることを、あたしは密かに期待していた。
霧香が運んできてくれた紅茶を何気なく口に含み、驚いた。
「・・・おいしい」
本当にそう思ったので、素直にそのままの言葉が出た。芳ばしい香りが口一杯に広がる。カフェでもこんな紅茶を出す店は希少である。
「へぇー、あんたいつの間にこんなこと憶えたの?」
感心していた。霧香にも殺し意外に立派にできることがあったのだ。
「うん、最近」
最近、という言葉があたしの耳に異常に響いて聞こえた。最近あたしは霧香のことを全く見ていない。
つづく
第三幕へ