断ち切れない黒い糸


 「いってらっしゃーい」
 ひざの上で広げている雑誌に目を落としたまま、片手を挙げ、あたしは霧香を送りだした。
 珍しいことに、今日は霧香が一人で買い物に行くと言い出した。多分、あの子なりに気を使っているのだろう。霧香はシシリアで両腕を負傷してしまったので、その後の仕事は、大方あたし一人でこなした。
 シシリアのあの件から1ヶ月余りが経過した。
 あたしは仕事に没頭した。たとえ報酬が悪い仕事でも引き受けた。疲れていると余計なことを考えずにすむからだ。
 そうやって、あの件を記憶の彼方へと放り込んだ。そして、ようやく心の均整を保てるようになってきた。
 今日は久しぶりの休日。
 霧香が与えてくれた時間、どうやって過ごそうかと考えていた時だった。
 扉をノックする音がした。
 霧香が忘れ物でもして、戻ってきたのかと思った。けれど、それならば自分で鍵を開けて入ってくるだろう。
 再び扉を叩く音が響いた。
 警戒しながら慎重に、ゆっくりと扉を開け、あたしは愕然とした。
 左目を覆い隠す紫の髪。薄紫色の衣。髪と同じ色のストール。忘れもしない、その出立ち。
 それは、あたしが殺した人物だった。
 立ち尽くしているあたしの横を通り、その人物は部屋へ入っていった。
 あたしは振り返り、もう一度よくその人物を見た。ビリヤード台にもたれ、こちらを見ている。
 「どうしたの、そんな顏して。まるで、死んだ人間が目の前に現れたみたいじゃない」
 面白可笑しそうに、その人物が言った。
 何が違うというのだろう。死んでいた、あの人は。あんなにも血がにじみ出ていたのだ。
 いや、もしかすると出血の量に気を取られ、そう思い込んでしまったのかもしれない。あの時のあたしは、冷静さを見失っていた。
 だとすると、この人は本当にあの人なのだろうか。
 「ミレイユ」
 紛れもなくシルヴァーナの声だった。
 あたしはシルヴァーナに飛びついた。首に両腕を巻き付け、キスをした。彼女の命の息吹を感じとるように、深く、激しく。
 シルヴァーナが顎を動かし、それに応じてくる。
 あたしの全身がシルヴァーナを感じたくて渇望していた。背中に回された手が、いっそう掻き立てる。
 唇が突然離された。まだ繋がっていたかったという思いから、あたしの口から小さな息が漏れた。
 「随分、大胆なのね」
 至近距離で見つめ合いながら、シルヴァーナが言った。その唇が艶々と光っている。
 欲望を見透かされたような気がして、あたしは恥ずかしくて首筋に顔をうずめた。
 「ベッドへ行かない?」
 耳の後ろから声がした。
 拒む理由は何もない。むしろ、あたしもそれを望んでいる。あたしから誘いを掛けたのだ。
 体を離し頷くと、シルヴァーナが手を差し出してきた。
 その手を取ると、ベッドへと導かれて行った。
 シルヴァーナの手があたしの両肩に乗せられ、ベッドに座ることを促された。
 腰を下ろすと、シルヴァーナがあたしの前に屈んだ。鈍い音を立てて、右足のブーツのジッパーが下ろされた。
 「足、上げて」
 言われるままに右足を浮かせると、ブーツを脱がされ、素足が露になった。まるで、心まで丸裸にされたような錯角に陥り、羞恥が高揚を煽る。
 足の裏に手が当てられ、そっと床に下ろされた。
 左のジッパーが音を立てると、今度は言われる前に足を浮かせ、同じ動作をくり返した。
 シルヴァーナが立ち上がると、手を差し出してきた。その手に掴まり、あたしも立ち上がった。
 予想通りシルヴァーナが服を脱がせにかかったので、あたしは体を動かし脱がせやすいように協力した。あっという間に、生まれたままの姿にされた。
 焼け付くような視線に耐え兼ねて、ベッドへと逃げ込んだ。シルヴァーナに背を向けて、ブランケットをかぶった。
 衣擦れの音がしたかと思うと、背後から抱き竦められた。滑らかな肌が吸い付いてくる。
 シルヴァーナの吐息があたしの首筋をくすぐると、もう堪らなかった。早く触れて欲しくて身体が反応する。けれど、淫猥だと思われたくなくて、なけなしの理性で平静を装う。
 肩が引かれ仰向けにされると、シルヴァーナが覆い被さってきた。乳房と乳房が触れ合い、言い表しようがない程の心地よさに満たされる。
 軽く唇を吸われた。そして、お互いの目に潜む欲望を確かめるように見つめ合ってから、もう一度キスをした。舌の動きを感じ、流れ込んでくる唾液を飲み下し、長い長いキスを交わした。
 唇が首筋をなぞり始めると、冷たい手が乳房を弄りだした。
 欲望が理性を追いこしていた。
 あたしは感じるままに息を荒げ、身をよじらせた。
 首筋から迷うことなく唇は胸の膨らみの尖端へと降りてきた。
 右は唇と舌に、左は指に弄ばれ、あたしのそれは見なくても堅くそそり立っているのが分かった。軽く歯を立てられると、甘い痛みが全身を駆け巡った。
 シルヴァーナの手が乳房から放れると、臍を伝いゆっくりと下へ向かっていった。
 あたしは、ためらった。その部分に触れられることを。すでに端ないくらいに濡れているのが分かっていたから。その反面、触れて欲しくて堪らなくもあった。
 あたしの葛藤をよそに、手はその部分に触れることなく、太股に到達した。そして、その部分に決して触れることなく、ごく近い股の内側を撫で摩っている。
 しばらくそれを続けられると、遂には耐えきれなくなり、膝を曲げ自ら足を開いた。それを待っていたというように、即座に指が股の中心部をなぞった。その動きに呼応し、あたしの口から喘ぎが漏れた。
 快楽の渦の中、ぼやけた視界に、指に絡み付いている粘い透明な液体を見つめ満足げに笑みを湛えているシルヴァーナの姿が映っていた。
 シルヴァーナは赤い舌を出し、それをねぶる。あたしが見ているのを知っていて、わざとにいやらしく、みだらに。
 あたしは想像せずにはいられない。その舌の動きで弄られるのを。それだけで、ヴァギナが収縮した。
 ブランケットを引き剥がし、シルヴァーナはあたしの股の間に割って入って、顔を埋めた。
 待ち焦がれていた刺激に、愛撫されている唇が涎を流して悦ぶ。
 湿った音と、よがり声が部屋に反響していた。
 クリトリスに唇が触れると、余りの衝撃に身体がのけ反った。
 ねっとりとした舌で転がされ、唇で吸われると、あたしはオーガズムに達した。
 まだ、荒い息をしている唇を塞がれた。舌を刺すような厭な味が口の中に広がる。長いキスを交わしていると、やがてはそれも感じなくなった。
 波が去り、頭がはっきりしてくると、今度は触れたい衝動が押し寄せてきた。
 あたしの髪を撫でている手を制し、身体を反転させ、シルヴァーナの上に跨がった。
 驚いたことに、シルヴァーナは細い身体付きをしていた。服の所為で分からなかったのだろうか。それとも会わなかった一月程で痩せたのか。
 胸の中央にある長さ5センチ程の傷跡が目に飛び込んできた。あたしが刺した跡。
 視線に気付いたシルヴァーナがやわらかく微笑んだ。
 「これはあなたの栄誉を称える功績よ」
 そう言ってシルヴァーナは、その傷跡を慈しむように手でなぞった。
 けれど、あたしには只の痛々しい傷跡にしか見えない。
 「ねぇ、痛かった?」
 身体を密着させ、頬を肩にのせて、顔を見られないようにして訊いた。
 シルヴァーナは否定もしなければ、肯定もしなかった。ただ、ふふ、と鼻で笑った。振動が直に伝わってくる。
 「そんなことを気にしてるの」
 死に至ったかもしれないのにシルヴァーナは簡単に、そんなこと、と言って退けた。この人は死すら恐れていないのだろう。
 「この傷があるから、今、私達はこうしていられるんじゃない」
 言葉と同時にシルヴァーナの手があたしの背中に回され、背骨をなぞった。消えかかっていた火が一気に燃え上がった。
 シルヴァーナが上半身を起こした。あたしの身体も起き上がり、ベッドに膝を着いてシルヴァーナの両股を跨ぐ、という態勢になった。
 手を伸ばし、シルヴァーナの左目を覆い隠している前髪を掻き揚げて両目が欲情を湛えているのを確認し、口付けを交わした。
 徐々にシルヴァーナの足が開いていった。必然的にあたしの股も開く。
 「あぁっ・・・」
 あたしの口から甘い声が漏れた。シルヴァーナの指が、予期せず、液体が溢れ出てくる入口に触れたからだ。
 指がその前後をなぞり始めると、あたしの息は急速に乱れていった。
 シルヴァーナにキスをし、のどの奥から出てくる声を押し殺した。
 突然、愛撫の手が止まった。ちょうど入口に中指を当てたまま。
 唇を吸って行為の続行を促したが、全く動く気配を見せない。
 腰を動かし、強引に指をあたしの中に招き入れた。けれど、指はまだ微動だにしない。隙間を埋めるだけでは満足できなかった。もっと、刺激が欲しい。
 「ねぇ・・・シルヴァーナ、お願い・・・」
 耐えきれずに、あたしは紫の瞳を見つめ、懇願した。
 「何?」
 分かっているのに、分かっていない振りをしている。あたしはそれを分かっていながらねだる。
 「して・・・動かして、指・・・お願い」
 まだ動いていないのに、あたしはシルヴァーナの指を締め付けた。
 微妙に、もどかしい程の力で指が壁を圧迫し始めた。少しずつその動きが激しくなっていき、淫猥な音を立て、あたしの中を掻き回した。指の動きに同調するように、意志とは無関係にあたしの腰が動く。
 もっと感じたい、あなたの指を。
 下腹部に熱が集中していく。そして、それが一気に爆発し、腰がとろけるような絶頂を向かえた。
 全身の筋肉が弛緩し、自分で身体が支えきれず、あたしはシルヴァーナにへばりついた。
 急に瞼が重くなってきた。
 仕事の疲れもあったのだろう。あたしは、半ば意識を失うように眠ってしまった。



 目が覚めると、あたしはきちんとブランケットを着て寝ていた。シルヴァーナが掛けてくれたのだろうか。
 当の本人はどうしたのだろう。辺りを見回すが気配がない。部屋は夕陽に照らされ、赤く染まっていた。
 ・・・・・霧香。
 背筋が凍り付いた。霧香のことを今の今まで忘れていた。もし、セックスの最中に帰ってきていたら、あたしは一体どうするつもりだったのだろう。幸いなことに、まだ帰ってきていなかった。
 あたしは浴室に向かった。その際、ベッドのシーツを外し、洗濯機に放り込んでおいた。
 時間が経つにつれ、シルヴァーナの存在が現実味を失っていった。本当はシシリアの土の下で眠っていて、あれは押し隠した欲望が具現化された夢だったのかもしれない、と思えてきた。
 それにしては、リアルだった。あたしの身体には、まだ唇や指の感触が残っている。
 でも、その感触以外にはなにもなかった。あたしは、シルヴァーナが今どこに住んでいるのか知らない。連絡先すら知らない。だから、あれが夢でないと確信をもてずにいた。
 陽が暮れても霧香は帰ってこなかった。
 何かあったのでは、と心配せずにはいられない。裏社会で生きる者として、いついかなる時に襲われるか分からない。霧香程の腕であれば、そう易々と遣られることはないはず。そうは分かっていようとも気になってしまう。
 気を紛らすためにも、夕食の支度をして待つことにした。
 ちょうどでき上がった頃に扉が開いた。
 「おかえり」
 紙袋を抱えた霧香の姿を見ると、ようやく心が落ち着いた。安心すると空腹を感じた。
 「遅かったじゃない。一体どこまで買い物に行っていたの?もう、ご飯の準備はできているわ。早く食べましょう」


つづく

第二幕へ

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