今の私にできること


 昼過ぎに、一緒に買い物に出かけた時から、ミレイユは上の空だった。
 食事も殆ど口にしていなかった。デザートにと買ってきたオレンジも、実がよく詰まっていておいしかったのに、一口食べたきりだった。
 ミレイユの心はシルヴァーナで占められている。それは痛い程思い知らされた。
 けれど、一旦は入ったベッドからミレイユが出て行こうとした時、私は呼び止めた。
 ミレイユはただ一言、ごめん、とだけ言った。
 その言葉は薄闇の中、絶望的に響いた。
 とっさにミレイユの手首を掴み、強く引いた。バランスを崩しベッドに倒れ込んだミレイユの上にまたがり、両方の手首を押さえ付け動きを封じ込めた。
 ミレイユは事態が飲み込めず、驚いた顔をしている。
 「何、どうしたの?」
 困惑した声を発した唇にキスしようとした。けれど、ミレイユは顔を背け逃れた。それでも追いかけ何度も唇にキスしようとしても拒まれた。
 「ちょっと、やめなさいよ!」
 抗議の声を上げているミレイユを無視し、唇は諦め、首筋に唇をつけた。少しずつ下がっていくと、シャツの間から鎖骨が覗いていた。鎖骨にそって舌を這わせた。右も左も。
 けれど、それ以上はシャツによって阻まれていた。それが、ミレイユと私を隔てる忌わしい壁に思えた。
 掴んでいた手を放すと、ミレイユが私を押し退けようとしてきた。顔や頭、体をはたいてきても、私は構わずにシャツに手を伸ばし、力一杯引き裂いた。ボタンが弾けとび、床を転がる小さな音がした。
 力ずくでもう一度手首を押さえ付け組み敷いた。
 ミレイユの白い肌が、仄かな灯りに照らし出されていた。しばらくその綺麗な体躯を眺めた。
 ミレイユはもう抵抗する様子がなかったので、手を放した。そして、豊満な乳房に触れようと手を伸ばしたけれど、途中で止めた。ミレイユの顔を見てしまったからだ。ミレイユは恐ろしい程、無表情だった。まるで、感情をどこかに置き忘れてきてしまったかのように。どこかとは、シルヴァーナのところか。
 私は自分がしてることの、虚しさを悟った。
 私自身、こんなことがしたかった訳ではなかった。ミレイユが、シルヴァーナにだけ肌を許したことが我慢ならなかったからか。体を合わせれば何かが変わるかもしれないと思ったからか。自分でも理由はよく分からなかったが、ただ一瞬の衝動でしてしまっただけのことだった。
 きっとミレイユは、こんなことをした私に呆れ果ててしまっただろう。
 ミレイユの体から降り、ベッドの端に体を丸めて座った。
 ミレイユがベッドから降りていった。足音が遠ざかっていく。
 あぁ、出ていくんだ、と思った。そして、もう二度とは戻ってこないのだと。
 どこかでそれでいいとも思っていた。心のないミレイユと一緒にいて辛い思いをし続けるくらいなら、いっそのこといなくなってしまった方が楽になれるかもしれない。
 シルヴァーナならきっとミレイユが窮地に陥っても擁護してくれるだろう。イントッカービレと呼ばれていた程の人物だ。それだけの力はある。それに、心の底からミレイユを想っているのだ。そして、ミレイユも・・・。何も私が心配することはない。
 私は独りに戻るだけのことだ。
 けれど、いくら自分にそう言い聞かせても胸が鎮まることがなかった。私の心はミレイユを求めて止まない。
 下を向いたままだと涙がこぼれ落ちてしまいそうだったので、顔を上げた。すると、はだけたシャツ姿のままのミレイユがこちらにやってきた。
 私はミレイユから顔を背けた。さっきしたことを思うと、目を合わすことができなかった。
 ミレイユは私の正面に立つと、屈み込み、顔を覗き込んできた。
 「ほら、顔を上げなさい」
 私の右頬を包み込むように触れると、顔を持ち上げた。
 ミレイユは私の左頬を見つめていた。人さし指がそこに触れると、しみるような痛みがした。恐らく、さっき揉み合った時にできた引っ掻き傷だろう。
 持っていた絆創膏を、ミレイユがそこに貼ってくれた。
 「さあ、もう寝ましょう」
 そう言うとミレイユは立ち上がり、シャツを脱ぎ捨てて裸になった。
 「あんたも脱ぎなさい」
 私にはミレイユの言葉の意図が分からなかった。
 「いいから、早く」
 呆然としていると半ば強制的に服を剥がされた。
 ベッドに入ると、ミレイユに引き寄せられた。私はミレイユの腕の中にすっぽりとはまってしまった。まるで、そこにあるべきもののように。
 素肌と素肌が触れあうことが、こんなにも気持ちがいいものだとは知らなかった。
 私はミレイユの胸元に頬をすり寄せた。ミレイユが私の背中を鼓動に合わせてやさしく叩いている。母親の腕の中とはこんなものなのだろうか、と漠然と思った。
 心地よい安心感に、柔らかな眠りへといざなわれていった。



 目が覚めて、隣にミレイユの姿がなくて飛び起きた。燦々と窓から陽射しが射し込んでいる。
 周りを見回しても、ミレイユはいなかった。時計を見ると、11時を回っていた。
 ふと匂いに気付いた。食欲をそそるような芳ばしい匂い。
 キッチンからミレイユが姿を現した。服を着て、エプロンを着けている。
 「おはよう、お寝坊さん」
 自分が裸なのに気付き、慌ててブランケットを胸元に引き寄せた。昨晩の出来事が、脳裏に蘇った。強姦未遂。羞恥と気まずさが込み上げてくる。
 「もうすぐできるから、顔でも洗って待ってて」
 ミレイユが昨晩の出来事を気にしている様子は微塵もなかった。それどころか、襲った後といい、今といい、異様なまでに接し方がやさしかった。
 ブランチとなってしまった食事を済ませ、その後はミレイユに誘われるままにウインドウショッピングに出かけた。
 私に似合う服はどれだ、とか、その服にはこの靴が合う、など執拗なまでにミレイユは私に話し掛けてきた。終始、笑顔で。買ってもいいのよ、とミレイユは言ってくれたけれども、今ある物で充分間に合うので私は首を横に振った。
 夕食は外で済ませ、部屋へ戻った。



 「依頼よ」
 パソコンのモニタを見ながら、ミレイユが言った。
 私はミレイユの横に立ち、モニタを見た。依頼人、ターゲット共にポルトガル在住だった。
 「どうするの?」
 私は訊かずにはいられなかった。引き受けるということは、暫くはパリを離れることになる。シルヴァーナが現れて以来、パリを離れたことがないのだ。
 ミレイユは一瞬考え込んでから、
 「報酬も悪くないし、引き受けましょう」
 と、私の顔を見て微笑んで答えた。
 私は目を逸らし、そう、とだけ返した。ミレイユの笑顔が重くのしかかってきたから。
 「明日、出発しましょう。さぁ、そうと決まれば荷造りね」
 今晩もミレイユは、出かけないようだった。私を気遣っているのだろう。けれど、今日会いにいかなければ、次はいつになるか分からない。
 私が「行かないで」と言ったあの日から二人は会っていないし、連絡を取っている様子もなかった。ということからすると、別れた訳ではないのだろう。
 今日みたいなミレイユと一緒にいるのは、たまらなく辛かった。無理しているのが分かるから。ミレイユが笑顔を見せれば見せる程、私の心は痛んだ。
 シルヴァーナは「全てを捨ててここに来た」と言っていた。それは、過去を持たない私と同じではないのだろうか。きっと彼女も帰る場所を持っていないのだろう。だとすれば、今頃は心引き裂かれる思いでミレイユが来るのを待っているのではないのだろうか。ミレイユだって、きっと・・・。
 ミレイユはシルヴァーナに会いに行くべきだ。引き止めたりもしたけれど、今はそう思えた。ようやく納得できたというべきか。
 ミレイユにあんな風に笑って欲しくない。いつものミレイユでいて欲しい。
 それに、このままでは仕事に支障を来すかもしれない。集中力を少しでも欠けば、命を落としかねない。
 「・・・ミレイユ」
 出発準備も調い、私が入れた紅茶を二人で飲んで一息ついた後、意を決して口を開いた。


最終幕へつづく

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