今の私にできること


 「私は、いいよ・・・」
 「何?」
 ミレイユが何のことか分からない、といった目をして私を見ている。
 「あなたが、シルヴァーナのところへ行っても。・・・戻ってきてくれるのなら」
 私は言葉を選びながら、ゆっくりと言った。ミレイユの瞳を見据えて。
 ミレイユは押し黙ってしまった。
 そして、10秒程の沈黙の後、
 「行ける訳ないじゃない」
 と、ぽつりと呟くように言った。
 行かない、ではなく、行ける訳ない、だった。それは、行きたいけれど、行けないということ。
 「どうして?」
 「今のあんたを放って行けないでしょう!」
 その言葉は、複雑だった。
 私のことを心配してくれるのは嬉しい。けれど、そのためにミレイユが無理をしなければいけなくなる。そんなのは嫌だ。
 私は大きく息をつき、心を落ち着かせた。
 「私はね、ミレイユ。約束さえ果たしてくれたら、それだけで・・・」
 言葉が詰まった。このままでは、余計に心配されてしまう。
 急いで言葉を繋いだ。
 「それだけで充分なの。だから、気にしないで行って」
 そうだ。それ以上、望んではいけない。
 「でも・・・」
 「いいの、ミレイユ。無理、しないで」
 ミレイユの反論を遮るように言い、笑顔を作った、つもりだった。うまく笑えたか分からない。
 ミレイユは目を閉じ、しばし考え込んでから、
 「本当に、いいの?」
 と、訊いた。
 「うん」
 「・・・分かったわ。じゃあ、行くけど、本当に大丈夫なの?」
 「うん」
 立ち上がってクローゼットに向かい、コートを取り出してそれを羽織ると、ミレイユは私の前にやってきた。
 「すぐに、戻るから」
 私は静かに頷いた。
 ミレイユは部屋を後にした。
 私はこのまま座って待ってることにした。
 けれど、2時間経ってもミレイユは戻らなかった。
 すぐに、とは、どの程度の時間を指すのだろうか。ミレイユのすぐに、は、一体何時間のことだったのだろうか。
 そんなことを考えながら、時計とにらめっこをしていた。



 誰かが近付いてくる気配に気付き、飛び起きた。
 目の前に手があったので、反射的に手首を掴んだ。顔を見るとミレイユだった。
 「こんなところで寝てたら、風邪引くわよ」
 どうやらビリヤード台にうつ伏せて、眠ってしまっていたらしい。足が冷えきっている。
 「・・・寂しかった?」
 ミレイユの問いに私は即答できなかった。
 寂しくない訳がない。だけど、頷くことはできない。
 そんなことない、と言おうと口を開きかけると、ミレイユの言葉に遮られた。
 「手」
 「え?」
 一瞬何のことか分からなかった。
 自分の手を見ると、ミレイユの手首を握ったままだった。
 「あ、ごめん」
 慌てて放すと、強く握りしめていたのか、ミレイユの白い肌がうっすらと赤く染まっていった。
 「ちゃんとベッドに入って寝なさいよ」
 赤くなった手首を隠すようにして、ミレイユは浴室へ姿を消した。



 翌日、パリからポルトガルのリスボンへと飛んだ。
 仕事は下調べから遂行まで5日で片が付いた。
 難無く無事為し遂げた。



 これで良かったのだ。
 仕事のない日の晩は、ミレイユが出かける。
 私は戻ってくるのを信じて待つ。
 そうすれば、全てがうまく収まると思っていた。
 けれど、一体何が違っていたというのだろう。
 どうしてミレイユは、泣き崩れているのだろう。
 パリに帰国した日の晩、ミレイユは私に断ってからシルヴァーナに会いに行った。でも、30分程で帰ってきて、今私の目の前にいた。くずおれて、声を上げ、大粒の涙をぽろぽろとこぼしている。
 何があったのだろう。
 「ミレイユ?」
 「シルヴァーナが・・・シルヴァーナが、いない」
 嗚咽まじりの、震えた声でミレイユが言った。
 「いないって・・・どこかに出かけてるだけじゃ」
 ミレイユは首を横に振った。
 「パリには、もう・・・いない」
 自分の言葉に絶望を感じたのか、ミレイユはそれ以上何も言わず、手で顔を覆い隠し、泣きじゃくっていた。
 「どうして・・・」
 私は誰にともなく呟いた。
 どうしてシルヴァーナはミレイユを置き去りにしたのだろう。
 ミレイユを連れ去っていなくなる、というのなら理解できる。けれど、シルヴァーナはそうしなかった。
 私のために身を引いた、とは、考えられない。顔を合わせた時には、明らかに敵意を向けられていた。
 だとしたら、どうして一人で消えてしまったのだろう。
 ミレイユを廻って、シルヴァーナと私は同じ立場にいると思っていた。だからこそ、尚更シルヴァーナの行動が不可解だった。
 シルヴァーナには、分からなかったのだろうか。あなたがいなくなると、ミレイユが哀しむということが。こんなにも心を痛めて涙をこぼすということが。
 自然に私の頬も濡れていた。
 この涙は一体何なのだろう・・・。
 ミレイユがシルヴァーナのために涙を流していることが哀しいのか。いや、違う。もっと単純なこと。ミレイユが哀しいから、私も哀しいのだ。
 今の私にできることは、何もないのだろうか。
 その哀しみを少しでも拭うことができるのなら、何でもしてあげたいと思った。
 けれど、ミレイユは肩を落とし、うなだれて、涙を流し続けるだけだった。
 だから私も涙を流し続けた。



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ここで、次回作の予告を。
ミレイユさんと霧香さんのあったかーい話を書きたいところなんですが、
それは全話見てからにしたいので、もうしばらくお待ち下さい。
12月の上旬頃に終わるので、それ以降になると思われます。
という訳で、もう少しこのお話につき合って頂けないでしょうか。
ミレイユさんの視点からも書いてこそ、完結といえると思うので。
書き上げる自信はないのですが・・・。

『断ち切れない黒い糸』よろしければ、おつき合い下さい。