今の私にできること


 「今から行くわ。・・・じゃあ」
 ミレイユは受話器を置いた。そして、クローゼットからコートを取り出し、羽織った。
 ベッドの上でひざを抱えて、私はミレイユを見ていた。時計の針は午後9時を指している。
 ミレイユがこれから誰のところへ行くのか分かっていた。昨日、私はその人物に会っている。
 「ちょっと出かけてくる。遅くなるかもしれないから、先に寝てて」
 「ミレイユ!」
 出ていこうとする背中に呼びかけた。ミレイユが振り返り、私を見る。
 「・・・いってらっしゃい」
 それ意外に何が言えるだろうか。ミレイユにとって私は只の仕事上のパートナーでしかない。ミレイユと私を繋ぐものは華奢な約束ひとつだけ。こんな私に引き止める権利などもっていようはずがない。
 眉間にしわを寄せ、困惑、悲愴、憐憫とも見分けのつかない複雑な表情を残し、ミレイユは出ていった。
 ミレイユのいないこの部屋は、余りにも広く感じた。そして、部屋にあるもの全て、色褪せて見えた。ビリヤード台、椅子、ベッド、窓、鏡、時計、天井、なにもかも。自分もそれらの無機的なもののひとつになったような気がした。
 ぼんやりと、日本で独りでいた時のことを思い返してみた。あの頃は独りがこんなにも辛いと感じたことはなかった。これが寂しいということなんだろう、と実感した。
 正確にいうと、独りが寂しいということではない。ミレイユがいないことが、である。たとえ他の誰かがいようとも、私の寂しさを埋めることはできはしないのだろう。
 ミレイユの枕に顔をうずめた。そこから、ミレイユの髪と同じ匂いがした。
 「ミレイユ」
 名前を口にすると、寂しさが更に募った。
 何も考えずにベッドに寝転がり、ただぼうっとしていた。何も考えたくなかった。こんな時に限って眠気はやってきてくれない。
 時計を見ると0時を回っていた。
 ふと頭に、カフェで話した時の自信に満ちたシルヴァーナの顔がよぎると、考えまいとしていたひとつの可能性が私の胸を刺し貫いた。
 ミレイユはもう帰ってこないかもしれない。
 必死にその可能性を否定した。ミレイユは「出かけてくる」と言ったのだ。出かけるということは、帰ってくるということ。それに「遅くなるかも」とも言っていた。
 きっと、もうすぐ帰ってくる。何度も自分にそう言い聞かせた。
 再び時計に目をやった時、鍵が開く音がした。1時45分頃だった。
 反射的に体を壁側へ向けた。
 ミレイユは部屋に入るなり、ベッドにやってきて、
 「起きてるの?」
 と、訊いた。多分、灯りをつけっぱなしだったからだろう。
 私が答えないでいると眠ってると思ったのか、それ以上は何も言わず、着替えて、電気を消し、ベッドに入ってきた。
 ミレイユが戻ってきた。たとえ、シルヴァーナと何があったにせよ、私にはそれが全てだった。
 だけど、シルヴァーナに嫉妬していないといえば嘘になるだろう。私もミレイユに同じことをしたいのかどうかは分からない。今までそんなことは考えたこともなかったから。けれども、私の知らないミレイユを、シルヴァーナが知っているという事実は妬ましく思った。
 寝返りを打ちミレイユを見た。すでに眠っているのか目は閉じられている。
 ミレイユの髪からは、いつもと違う匂いが漂っていた。



 それからというもの、ミレイユは仕事(といっても、在宅でこなせるものが一件)のない日の晩は、いつも出かけていった。シルヴァーナの元へ。
 その度に私は、眠らずに、けれど眠っている振りをして帰りを待った。
 そんな生活が二週間も過ぎた頃、ついには一睡もせずに朝日を迎えてしまった。



 ベッドの中で、じっとしていた。動く気力すら湧いてこなかった。何もかも、もうどうでもよく思えてきた。これからのことも。自分の失われた記憶のことも。
 瞼が重くなったら眠り、けれどそれは浅くすぐに覚め、ぼんやりと天井を眺める。それを、ベッドの中で何度もくり返した。ただ、トイレに行く時だけ起き上がった。
 時だけが淡々と過ぎていく。
 ミレイユは戻らない。
 陽も陰り始めた頃、植木に水をあげていないことを思い出した。あれだけは枯らしたくない。
 鈍く重い体を動かし、起き上がった。
 目の前にミレイユが立っているような気がした。
 やだな、幻覚が見えるなんて、と心の中で自嘲する。
 「ただいま」
 静かな声に顔を上げると、幻ではなくミレイユはそこに存在していた。
 「あ・・・」
 どうしてここにいるの。もう少しで、そう訊きそうになった。ここはミレイユの部屋だから、いて当然のことなのに。
 「ご飯、ちゃんと食べた?」
 心配そうに私の顔を見ながらミレイユが訊いた。
 思い返してみても、もう夕方だというのに何か口にした憶えがなかった。
 私が黙りこくっていると、ミレイユはあきれた、という顔をして、
 「まさか、朝から何も食べてないの?」
 驚きと、怒りが混じった声で言った。
 「・・・忘れてた」
 本当に忘れていた。食べたいとも思わなかったし、空腹という感覚すらなかった。
 ミレイユが大きく息をついてから言った。
 「今から作るわ。待ってて」



 その日の晩は、ミレイユは出ていかなかった。早々にベッドに入るなり、静かな寝息をたてていた。
 昨晩は一睡もしていなかったので、私もすぐに眠った。
 けれど、夜中に何度も目が覚め、その度にミレイユの姿を確認した。



 翌晩のこと。
 「ちょっと出てくるわ」
 私に目を合わさずにミレイユが言った。コートを羽織っている。
 「ミレイユ」
 呼び掛けると私を見た。
 引き止めたいけれど、なかなか言葉が見つからない。
 まごついている私に先を促すこともせず、ミレイユは次の言葉を待っていた。
 そもそも、私が引き止めたところで、ミレイユはとどまってくれるのだろうか。拒絶されるのが恐い。けれど、昨日のような思いは二度としたくない。
 「・・・行かないで」
 情けない程、弱々しい声だった。ミレイユの耳に届いたかすら分からない。
 もう一度言うべきか思案していると、ミレイユがコートを脱ぎ始めた。そして、それをクローゼットにしまうと、ビリヤード台の前の椅子に座った。
 私はただ呆然と見ていた。
 ミレイユが出かけるのをやめたのだ、と気付くまでに時間がかかった。
 ミレイユはパソコンを立ち上げ、モニタを眺めている。
 私はミレイユに何かしてあげたいと思った。
 「お茶、入れようか?」
 モニタから私に視線を移すと、ミレイユは軽く微笑み頷いた。
 私は料理が得意ではなかった。だから、時折手伝う程度でミレイユが大抵していた。その分せめて他のことを何かしたいと思い、最近紅茶の入れ方を憶えた。まだ一度もミレイユに飲んでもらったことはない。
 キッチンへ向かい、お湯を沸かし、棚から紅茶の葉が入っている缶を取り出した。ふたを開け香りを嗅ぐ。芳しい香り。
 沸騰したお湯をカップとティーポットに注ぎ、それを流す。ティーポットに葉を入れ、少量のお湯を注ぎすぐに流す。それからお湯を注ぎ、浸出させ、カップに赤い液体を注ぐ。浸出させる際、お湯の温度に気を付けなければいけない。熱すぎると出過ぎるし、ぬる過ぎると葉が開かない。最後に香り付けにブランデーを数滴落とす。
 たかが紅茶を入れるだけだというのに、私はひどく緊張していた。そして、それはミレイユの口に入るまで続いた。
 「・・・おいしい」
  ミレイユからその言葉が発せられて、ようやく肩の力がぬけた。
 私もひとくちすすってみた。自分でもおいしいと思えるできだった。
 「へぇー、あんたいつの間にこんなこと憶えたの?」
 「うん、最近」
 感心したようにミレイユが訊いたので、妙に照れくさくて、赤い液体が入ったカップを見ながら答えた。
 お茶を飲み終えると、私が片付けをし、ベッドに入った。ミレイユも一緒に。
 私のたった一言で、ミレイユはここにとどまってくれた。シルヴァーナよりも私を選んだ。私が思っていた程、ミレイユはシルヴァーナのことを想っていないのかもしれない。
 しかし、その安堵にも似たささやかな優越感は、次の日にはことごとく打ち砕かれていた。


つづく

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