今の私にできること
「いってらっしゃーい」
テーブル代わりに使っているビリヤード台の前の椅子に腰を掛けているミレイユが、読んでいる雑誌に目を落としたまま、左手をひらひらと振っていた。
シシリアのあの件から一ヶ月余りが経過した。直後の張り詰めていたミレイユの雰囲気も、穏やかになっていた。心の中までは分からないが、少なくとも外見上はそう見えた。
正直、シルヴァーナがいなくなって心底ホッとしていた。シルヴァーナはミレイユを私の手の届かないどこか遠くへ連れ去ってしまいそうだった。
私が頼れるのはミレイユだけだった。ミレイユを失えば、過去を持たない私は未来をも見失ってしまい、途方に暮れてしまうだろう。
私にはミレイユしかいない。
けれど、何もかも依存してしまうことには抵抗があった。自分でできることは自分でしたい。日常生活に於いてもミレイユの役に立ちたい、という思いがあった。
ミレイユは突然押し掛けた見ず知らずの私に手を貸してくれた。その上、パリの生活に早く馴染めるようにと、休日の度に街へ連れ出してくれた。おかげで今や私はパリの街を一人で闊歩できるまでになった。
今日は休日。お買い物。
といっても、私自身何か特別欲しいものがあるわけでもなく、食料調達が主である。
普段ならばミレイユと一緒に行くところなのだが、今日は私が一人で行くと言い出した。
シシリアで負傷した腕の所為で、その後の仕事はミレイユが殆ど一人でこなしていた。こういう時に限って依頼が多い。口には決して出さないがミレイユに疲れの色が見えていた。今朝も昼前まで起きてこなかったほどだ。
だから今日はゆっくりと体を休めて欲しいと思い、私一人で買い出しに向かった。
ミレイユも一人の方がくつろげるだろうし、時間を潰すため、途中寄り道をした。昼下がりの緑溢れる公園を散歩し、川辺をぶらぶらと歩いた。
一通り買い物を済ませると、家路についた。
実は、一人で出かけたのにはもう一つ理由があった。
部屋に着いた時に、ミレイユが「おかえり」と言い、私が「ただいま」と返す。そのやり取りが好きだった。私には帰る場所がある、そう思えてきて心地いい気分に満たされる。ミレイユと一緒に出かければ、それが味わえなくなってしまう。
アパルトマンに着き、部屋の鍵を開けようとすると、閉まっていなかった。私が出る時には、確かに閉めておいた。ミレイユが開けたのだろうか?
怪訝に思い、警戒しながらドアを開けると、いつも見慣れたはずの室内に違和感があった。
目を凝らし、もう一度よく見てみる。
どう見てもミレイユが座っていた椅子に、別の人物がいた。出る前に見たミレイユと同じように雑誌に目を落としている。
その人物は私の記憶に鮮烈に残っていた。でも、もうこの世にはいないはず。いや、この手で直接、死を確かめた訳ではない。生きててもおかしくはない。ならば、なぜここにいるのだろう?まさかミレイユに復讐を。それとも・・・。
銃を取り出し、銃口を向けるとその人物はゆっくりと顔を上げ、私を見据えた。
間違いなく目の前にいるのは、シルヴァーナだった。シルヴァーナは顔を上げたきり、ぴくりとも動かなかった。
嫌な予感が胸の中に広がっていく。
シルヴァーナに銃口を向けたまま、部屋の奥に入り、視線でミレイユを探した。
ミレイユはベッドにいた。ブランケットから覗く白い肩が、かすかに上下している。
私は銃を下ろした。というより、肩から力が抜け構えていられなくなった。
ベッドの傍らに無造作に脱ぎ捨てられているミレイユの服と下着が、ここで何があったのかを生々しく物語っていた。
シルヴァーナがぱたりと雑誌を閉じ、私の側にやってきた。そして、ミレイユに目を向けた。その眼差しは愛おしさで溢れている。
「外へ出ない?ここで話をしてもかまわないけれど・・・」
私はシルヴァーナの申し出に、黙って従った。
訊きたいことは山のようにあった。けれど、口にすることができなかった。答えを耳にするのが恐かった。
部屋を出て、近くのオープンカフェに腰を落ち着かせても、まだシルヴァーナと言葉を交わしていなかった。
私は部屋に置いてこなかった紙袋に入っている買ってきたものを見つめていた。
「訊きたいことがあるんじゃないの?」
目の前の紅茶がすっかり冷めきった頃に、シルヴァーナがおもむろに切り出した。
ずっと避けていた視線をシルヴァーナへ向けた。挑戦的で私を試すような目をしている。
その射るような視線に気圧され、目を伏せるとテーブルの上で組んでいるシルヴァーナの青白い手が目に付いた。この手がミレイユにどんなふうに触れたのだろうか・・・。
「私自身、生きてたことには驚いたわ」
何も言わない私にしびれを切らしたのか、シルヴァーナが語りはじめた。
「あなたが殺した部下の一人が、万が一を考えて他の者に連絡をとっていたのよ。駆けつけるのが少しでも遅かったら手遅れになってたそうよ。・・・あなたには、その方が良かったんでしょうけど」
シルヴァーナの紫の瞳に、心の中まで見透かされているような気がした。
私は俯いたまま口を挟まず聞き続けた。
「イントッカービレとしての私は、あの時死んだわ。今は全てを捨ててここに来た。その理由は・・・」
そこで閉口したが、ミレイユだと分かった。
シルヴァーナは全てを捨てて、ミレイユを追ってパリへとやって来たのだ。ミレイユを愛しているから。ミレイユを見る眼差しが、全てを表していた。
ミレイユはシルヴァーナを、どう思っているのだろうか。体を許したのだから、嫌悪しているはずはない。もし、ミレイユもそうだとしたら、私はきっと捨てられてしまう。
胸がきしんだ。
「後は何が知りたい?さっき、私とミレイユがしたこと?」
心臓が鷲掴みされたように痛み、顔を上げ、シルヴァーナを見た。口元だけで微笑み、目は恐ろしい程据わっている。
「教えてあげるわよ。ミレイユの体は、どこをどうすれば感じるのか。ミレイユがどんな声を上げてよがるのか・・・」
買い物袋を胸に抱え、店から飛び出した。途中、自分の飲み物代を置いてこなかったことに気付いたけれど、走り続けた。人とぶつかっても、足を止めなかった。とにかく一刻も早くシルヴァーナから遠く離れてしまいたかった。
頭ではミレイユがシルヴァーナに抱かれたことを認識しているつもりだった。けれど、直接シルヴァーナの口から聞かされるのとは、衝撃が余りにも違っていた。
川辺まで来ると、息がきれ、肺が苦しくなり、足を止めた。側にあったベンチに座った。
このまま真直ぐ帰る気になれなかった。
ミレイユとどう接していいのか分からない。いや、それより、もうミレイユはそこにいないかもしれない。シルヴァーナの元へ行ってしまっているかもしれない。私のことなど忘れ、今頃はシルヴァーナの腕の中にいるのかもしれない。
たくさんの「かもしれない」が私の心を攻め立てる。
通り掛かった中年のおじさんが、私にハンカチを差し出してきた。それでようやく自分が泣いていることに気付いた。首を横に振りその好意をやんわりと断ると、おじさんはハンカチごとポケットに手を突っ込み立ち去っていった。
服のそで口で涙を拭い、空を見上げた。星が瞬いている。辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
重い腰を上げ、足を引きずるようにして歩き出した。
アパルトマンの前までくると、部屋の窓から灯りが漏れているのが見えた。それは私の心を少しだけ和らげてくれたが、やはりドアの前ではためらいが生じた。
もしかすると、今出て行く準備をしているのかもしれない・・・。
恐る恐るノブに手をのばし、ドアを開けた。
「おかえり」
いつもと変わらないミレイユがそこにいた。
全ては白昼夢だったのだ、そう思ってしまおうとした。
けれど、私はこの目で見たのだ。この部屋にシルヴァーナがいたこと。ミレイユが裸でベッドで眠っていたこと。胸に残っている痛みが、それが現実だと訴えかけていた。
「遅かったじゃない。一体どこまで買い物に行っていたの?もう、ご飯の準備はできているわ。早く食べましょう」
私はいつものように「ただいま」と、言えなかった。
つづく
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