新たなる旅



 「こんなものかしらね」
 部屋の中を見回してみた。
 ソルダの襲撃により荒らされた部屋がようやく元通りになり、満足していた。
 床を張り替え、壁を塗り替え、窓ガラスを入れ替え、家具を入れ替え、ビリヤード台も新しいものを調達した。
 そして、今埃ひとつないくらいに掃除をし終えた。
 後は霧香が帰ってくるのを待つだけだった。
 あの日、荘園であたしをかばって被弾した霧香を、すぐさまパリの知り合いの病院へ連れて行った。幸い急所は外れていて大事には至らなかった。けれど、病院側に頼んでしばらく預かってもらうことにした。あの荒涼とした部屋へ連れて帰ることは気が進まなかったからだ。霧香には病院での療養が必要だと言っておいた。
 部屋の酷い荒れ様に引っ越すことも考えた。ここはソルダに知られていることもある。けれど、ソルダというとてつもなく大きな組織から目の届かない場所は、どこへ行こうとも存在しないのだろう。それならば、わざわざ気に入ってる部屋を出ていくこともない。もしまたソルダが襲撃してきたならば真正面から戦うのみ。なんといっても、あたしはひとりじゃない。それはとても心強いことだった。
 ビリヤード台の前の椅子に腰を下ろした。そして以前と同じように台の上に置いたパソコンを立ち上げた。ノワールへの暗殺依頼のメールは跡を絶つことがなかった。あたしはそのメールアドレスを削除した。もう、必要がないからだ。
 あたしは両親と兄を殺害した人物に復讐するために殺し屋になった。そして霧香と出会い、便宜上手を組み、ノワールを名乗って仕事をするようになった。
 突如、意外な形であたしの復讐劇は幕を閉じることになった。
 霧香だったのだ。あたしが追い求めていた張本人は・・・。
 手を組む時に、あたしは霧香と約束を交わしていた。全てが分かった時あたしがあんたを殺す、と。そして、あたしの家族を殺害したのは霧香だった。あたしには霧香を殺せる2つの動機がった。霧香が殺されることを望んだことも含めると3つにもなる。にもかかわらず、あたしはどうしても引き金を引くことができなかった。あの時は何故殺せないのか自分でも分からなかった。ただ、その場から逃げることしかできなかった。何故殺せないのか、それが分かれば、或いは殺せるのかもしれない、そう思った。
 殺せない理由が分からないままに、あたしは霧香のいない生活を送った。久しぶりのひとりの生活に違和感を感じながら・・・。
 立ち上がってキッチンに向かい、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを持ってきた。そして、窓辺に置いてある花にそれを与えた。水がどんどん土に吸収されていく。この花は気に入ったのか、パリに来てからというものいつも霧香が世話をしていた。そして、霧香の想いが綴られた手紙が残されていたものでもあった。
 手紙に書かれていた霧香の素直な気持ちに触れて、あたしは何故霧香を殺せなかったのか理解できた。
 二人でいることに喜びを感じていたのは霧香だけだはなかった。それは、あたしも同じことだったのだ。いつの間にか隣にいることが当たり前になり過ぎていて、肝心なことにあたしは気付かないでいた。霧香は仕事上だけでなく、日常においてもあたしの良きパートナーになっていたのだ。そんなあの娘をどうしてあたしが殺せるというのだ。ようやく引き金を引けなかったことに納得がいった。案外、本当に大切なものとはすぐ側にあるものなのかもしれない。
 霧香はあたしに殺されるつもりで、あの手紙を残していた。全くふざけたことである。殺せなかったから良かったものの、もし殺した後にあの手紙を見つけていたら、それこそ一生霧香を恨んだだろう。そして殺してしまった己自身も。いくら願っても死んだ人間は生き返りはしないのだ。そういった大切なことは、もっと早く伝えてくれないと、もう少しで取り返しのつかないことになってしまうところだった。あの時、殺せなくて本当に良かった・・・。
 手紙を見つけた時、この花はもうだめだと思っていた。あの時もちょうど捨ててしまおうとしていた。でも手紙を読んだ後、どうしてもこのまま捨てることができず、新しい鉢に土を入れて植え替え、栄養剤を与えて僅かな望みに掛けてみた。すると、2枚の葉は枯れ落ちてしまったけれども、後のしおれていたものは日に日に蘇ってきた。そして今、小さな葉が芽吹き始めている。
 しばらく花を眺めた後、窓から空を仰いだ。雲ひとつ見当たらない空は青く澄みきっている。穏やかに降り注ぐ陽射しの眩しさに、あたしは目を細めた。外の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。それから部屋の中に視線を戻し、時計に目を遣った。そろそろ霧香が帰ってきてもいい時間だった。
 まず、帰ってきたら何を話そうか。やっぱりこれからのことだろう。まだ、先のことはさっぱり見当もつかなかった。見えない未来に不安でないことはない。けれど、どうしてだろう。満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
 今までのあたしの人生は、過去へ向けてのものだった。霧香もそうだ。あたし達は過去に捕われて生きていた。でももう、過去への巡礼の旅は終えたのだ。これからは、未来に向けて未知の旅が始まる。この旅の果てに待つものは一体何なのだろうか、それを見届けてみたい。霧香と共に・・・。
 いつの間に霧香の存在があたしの中でこんなにも大きくなっていたのだろう。今、思い返してみてもよく分からない。パリに来てまだ間もない頃は、快く思っていなかった。表情に乏しく、無愛想で、全く何を考えているのか分からない。過去の記憶もない。それでいて、殺しの技術は超一流。
 得体の知れない何かだ、と、一度霧香にそう告げたことがあった。それは今でも変わりがないかもしれない。けれど、それでもいいと思っている。霧香がたとえどこの誰で何であろうとも、あの娘はあの娘なのだ。それに違いはない。
 鍵が開く音に反応して、あたしは扉に目を向けた。
 そして、ゆっくりと扉が開いていく。
 「おかえり」
 そう言ってあたしはとびきりの笑顔で出迎えた。



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