沈みゆく太陽



 必死だった。
 ただ無我夢中で、手にしたものを突きだしていた。
 その先にいたシルヴァーナが、ゆっくりと倒れていく。
 シルヴァーナはその顔に、笑みを浮かべていた。
 苦笑いといったものではなく、心からの微笑み。
 私にはその表情に憶えがあった。
 初めてあった時に、私に微笑みかけてくれた、あの顔だ。
 私の中で何かが音をたてて、崩れていくのが分かった。
 そこから溢れ出してくる想い・・・懸想。
 一度溢れ出てくると、止まることを知らない。
 なぜ、その想いに気付かなかったのだろう。
 どうして、その想いを忘れていたのだろう。
 私の心は、あの時とうに奪われていたというのに・・・・・。

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 ミレイユは父に連れられて、シシリアを訪れていた。
 そこでの有力者との会合に顔を出した。
 海が見渡せるテラスで、テーブルを囲んでの談話。
 大人達の会話は、まだ幼いミレイユには退屈でしかなかった。
 俯いて自分の座っている、椅子の足を蹴っていると、父に咎められた。
 「ドン・サルヴァトーレがお見えになりましたよ」
 誰かがそう言ったのが聞こえた。
 皆が一斉に、新しい来客者へ目を向ける。
 ミレイユには、前に座ってる大人が視界を遮っていて、見えなかった。
 その大人が立ち上がると、初老の男性と、一人の少女の姿が見えた。
 ミレイユは、その少女に見愡れていた。
 青白い肌。
 まっすぐとのびた薄紫色の髪。
 前髪が左目を覆い隠している。
 色素の薄いその少女は、無機的な瞳をしていることもあり、人形のように見えた。
 そして、この世のものとは思えない程、綺麗だと思った。
 少女の瞳に光が宿ると、美しい顔に笑みを浮かべた。
 ミレイユは胸がどきりとした。
 少女のその瞳は、ミレイユを、ミレイユだけを映していた。
 隣に座っている父が、その少女がシシリア・マフィアのグレオーネ・ファミリーの孫娘だということを教えてくれた。
 「そうだ、ミレイユ。二人で遊んでくればいい。退屈だったんだろう」
 願ってもいない父に提案に、ミレイユは力一杯頷いた。
 ミレイユは、椅子から降り少女の元へ歩み寄った。
 ミレイユの目は、少女の姿に釘付けになったままだった。
 少女もまた、ミレイユから目を離していない。
 間近で見ても、その少女の美しさは変わらなかった。
 頭一つ分近く、ミレイユより少女の方が背丈が高かった。
 ミレイユは上目遣いに、少女の瞳を覗き込むように見つめると、髪と同じ薄紫色をしたそれに、吸い込まれてしまいそうな気がした。
 少女がミレイユに、右手を掌を上にして差し出してきた。
 青白くて細長い指。
 「私はシルヴァーナ・グレオーネ。・・・あなたは?」
 「・・・ミレイユ。ミレイユ・ブーケ」
 ミレイユはその美しさを称えるように微笑み、シルヴァーナの手の上に、自分の左手を載せた。
 シルヴァーナの手は柔らかく冷たかった。
 シルヴァーナが手を握ると、突然駆け出した。
 ミレイユもそれにつられて、引っ張られるように駆け出す。
 「ふふ・・・ふふふふ」
 シルヴァーナが声をあげて笑い出した。
 ミレイユもなんだか、楽しい気分になってきた。
 二人は笑い合いながら、駆けていく。
 海に面した岬まで来ると、シルヴァーナは勢いあまって、芝の上に倒れ込んだ。
 ミレイユも一緒に転ぶと、繋いでいた手が離れた。
 シルヴァーナは体を反転させ、仰向けに寝転んだ。
 ミレイユも真似てその横に寝そべる。
 突き抜けるように青く澄んだ空。
 爽やかに頬を撫でる潮風。
 温かい陽射し。
 隣にいるシルヴァーナの存在。
 全てが気持ちよかった。
 「気持ちいいね・・・」
 シルヴァーナが自分と同じ思いを口にしたことに、ミレイユは胸の中が温かいもので満たされていくのを感じた。
 ふと、目を横にやると、小さな黄色い花があちらこちらに咲いているのに気が付いた。
 そして、ミレイユはあることを思い付き、起き上がった。
 「ねぇ・・・ちょっとあっち向いてて」
 シルヴァーナは身を起こし、当惑した顔をしたがすぐに従ってくれた。
 ミレイユはシルヴァーナに背を向けると、黄色い花を摘み一心に『それ』を作り上げていく。
 『それ』がどんなにシルヴァーナに似合うか、想像しながら。
 「できた。・・・シルヴァーナ」
 ミレイユは完成した『それ』を後ろ手に隠し、芝の上で座っているシルヴァーナの正面にしゃがみ込んだ。
 『それ』を見た時、シルヴァーナがどんな反応をするか、ミレイユは楽しみだった。
 柔らかな笑みをシルヴァーナは浮かべていた。
 ミレイユが『それ』を掲げると、驚いたことにシルヴァーナも『それ』を手にしていた。
 『それ』すなわち、花を紡いで作った冠。
 二人は笑い合った。
 心地よい連帯感にミレイユは酔いしれていた。
 シルヴァーナが立ち上がると、ミレイユの頭にその冠を載せてくれた。
 「わぁー」
 余りの嬉しさに、冠に手をやりながら歓喜の声をあげるミレイユ。
 シルヴァーナがミレイユのために作ってくれた、世界でただ一つの冠。
 「シルヴァーナ・グレオーネよりコルシカのファミリーの娘へ、この冠を授けましょう」
 今度はミレイユが立ち上がり、シルヴァーナがひざまずき、冠の授与をする。
 「では、この冠をシシリアのファミリーの娘へ」
 ミレイユは誇らしげに腰に手を当てて言った。
 「ありがとう」
 と、微笑むシルヴァーナにその冠はよく映えていた。
 シルヴァーナと過ごす甘美なる時間。
 今日という日が特別な日になるだろう、とミレイユは思っていた。
 この美しい少女と引き合わせてくれた、父と神様に感謝したくなった。
 冠を作った黄色い花を一輪摘み、ミレイユはその芳しい香りを胸一杯に吸い込んだ。
 この花の名前はなんていうのだろうか・・・?
 ふと疑問に思い、シルヴァーナに訊いてみようと、視線を向けた。
 シルヴァーナもミレイユと同じように、その花の香りをかいでいた。
 その姿は、麗しく妙に艶かしかった。
 突然、シルヴァーナが手にしていた花を離すと、立ち上がって岬の先端へ歩き出した。
 そこから海を見下ろしている。
 ミレイユもシルヴァーナの隣に立った。
 十数メートルもの崖下の海を見下ろすことは、ミレイユを震え上がらせるには充分だった。
 「恐い・・・」
 ミレイユは思いが口に出た。
 「私はあなたに冠を授けた」
 話だしたシルヴァーナの顔を、ミレイユは見た。
 海を見下ろしたまま真剣な顔をしている。
 ミレイユにはシルヴァーナが何を言おうとしているのか、見当も付かなかった。
 「あなたはその名誉に相応しい勇気をもたなくてはならない」
 「シルヴァーナ?」
 その横顔が今までとはまるで別人のように見えた。
 美しいには変わりがなかったが、無表情のためか冷淡という印象が強くなっていた。
 シルヴァーナが顔をミレイユに向けた。
 何の感情も持ち合わせていないかのような、氷のように凍てついた瞳。
 「私には恐れはない。・・・あなたはどうなの、ミレイユ?」
 短剣を目の前にかざすシルヴァーナ。
 突如豹変した彼女に、ミレイユは恐れおののいた。
 「どうなの、ミレイユ」
 ニ度目の問いは質問というより、詰問といった感じだった。
 それがミレイユの恐怖に拍車をかけた。
 数歩シルヴァーナから後ずさったが、足がすくみ動けなくなった。
 シルヴァーナはそんなミレイユを尻目に短剣を鞘から抜く。
 顔には不敵な笑みを浮かべている。
 「・・・ミレイユ」
 シルヴァーナが短剣を手に突進してくる。
 けれどミレイユは恐怖の余り、どうすることも出来なかった。
 シルヴァーナが横切っても何が起こったのか分からなかった。
 気が付くと冠が切れて地面に落ち、前髪の一束が宙を舞っていた。
 この時シルヴァーナに対しての決定的なものが、ミレイユの脳裏に刻まれた。
 そして、淡い想いは深淵へと沈んでいった。

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 私は横たわるシルヴァーナを正視するのが耐えられなくて、背を向けた。
 全身の力が抜けていき、立っているのも困難になり、しゃがみ込んだ。
 よく考えてみれば、今回の仕事でシシリア・マフィアという言葉を耳にした時から、私は無意識にシルヴァーナのことを意識していた。
 今更ながらに、そのことに気が付いた。
 私はシルヴァーナとの再会を心のどこかで望んでいた。
 ニュージャージーの別荘での再会・・・。
 月の光に照らし出されたシルヴァーナの姿は、恐怖であると共にその美しさを再度認識させられた。
 そして、シシリアでの再会・・・・・。

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 契約書を、シルヴァーナを追ってシシリアへ向かい、ミレイユはすぐにあの岬を訪れた。
 あの日と同じように、小さな黄色い花が咲き誇っている。
 「私には恐れがない」と言い切る、美しい少女シルヴァーナをミレイユは思い出していた。
 十数年経った今でも、シルヴァーナへの恐怖心は消えていなかった。
 「・・・ミレイユ」
 一緒に来ていた霧香が、背後から声をかけてきた。
 けれど、ミレイユはもう少しシルヴァーナのことを考えていたかった。
 なぜあの人には恐れがないのだろうか?
 「先にホテルに帰ってて・・・」
 そう促すと、霧香は「分かった」と素直に従ってくれた。
 結局、シルヴァーナのことをいくら考えても、あの人には勝てないという強迫観念しか見つからなかった。
 次にミレイユは、シルヴァーナと初めて会った屋敷へ向かった。
 自分でもなぜそこに行こうと思ったのか分からなかった。
 ただ、足がそちらに向かっていた。
 屋敷は廃屋と化していた。
 ミレイユはそれに構わず、扉を開け中に入り、テラスへと出た。
 広大な海が一望できる。
 手すりに手をかけ、身を軽く乗り出し、潮風を吸い込むと鬱積していたものが晴れてきた。
 心が少し軽くなった気がした。
 「ここへ来ると思っていた」
 誰かがいるという気配はなかった。
 けれど背後から声がした。
 その声の主はミレイユには容易に見当が付いた。
 振り返り姿を確認する。
 やはりシルヴァーナだった。
 ミレイユはシルヴァーナがここにいるということに驚き、そしてその存在に震悚した。
 後込みするが手すりに阻まれる。
 「コルシカの娘・・・ミレイユ。ミレイユ・ブーケ」
 「やっぱり見られていたのね・・・」
 「月の光は無慈悲。隠れたるものを暴き出す」
 「そんな・・・私の顔を憶えていたなんて。一度・・・そう、たった一度会っただけなのに」
 十数年前のあの日以来、ニュージャージーの時まで二人が顔を合わせたことはなかった。
 顔は見られたかもしれないとは思ってはいたものの、まさかシルヴァーナが自分のことを、顔を憶えていたなんてミレイユには考えも及ばなかった。
 「あなたはあの時も震えていた・・・」
 シルヴァーナがミレイユの元へ歩み寄っていく。
 恐いという思いはあったものの、ミレイユはこの場から逃げ出したいとは思わなかった。
 ただ美しく、妖艶なシルヴァーナの姿に見愡れていただけかもしれない。
 「そのあなたが、ノワールという名の刃となって私の前に・・・」
 端正な顔が、どんどん近付いてくる。
 紫のルージュが引かれた唇から、赤い舌がうごめくのが見えた。
 喰われる!?そう思った瞬間、温かく柔らかいものが唇に重なっていた。
 ミレイユは突然のことに、自分の身に何が起こっているのか理解できなかった。
 口の中に自分のものではない、生温かいものを感じた。
 それが生き物であるかのようにじわじわと動き出すと、ミレイユは頭の中が真っ白になり、気が遠くなっていった。
 全身の力が抜けていく。
 手すりに支えられていたため、ミレイユは立っていることができた。
 右手に冷たいものが絡んできた。
 ミレイユにはそれがなんであるのかすらも、判別できなかった。
 ミレイユの舌に生温かいものが触れると、恐ろしい程の刺激が体中に駆け巡った。
 貪るようにミレイユの舌にそれは絡み付いてきた。
 体の芯から熱いものが込み上げてくる。
 ・・・・・ッ!!
 第三者からの殺気にミレイユの自我が蘇った。
 ミレイユはシルヴァーナを、自分にキスしている彼女を払い除けなければ、と思うが麻痺しているかのように体の動きが鈍くなっていた。
 右手を動かそうとしたが、シルヴァーナの手に握られていた。
 ミレイユ自身も無意識の内にその手を強く握りしめていた。
 ミレイユは空いている左手で拳を作ると、シルヴァーナに殴りかかった。
 力の入っていないそのパンチは容易く受け止められた。
 「死の接吻・・・」
 ミレイユは思い出し呟いた。
 イントッカービレがターゲットに施すというキス。
 「・・・その意味は知っているでしょう」
 死への誘い・・・とミレイユは認識していた。
 それをされた者は必ず死に至らしめられる。
 つまりはシルヴァーナを殺さない限り、ミレイユは彼女に殺されるということ。
 右手が振りほどかれ、掴まれていた左手首も振払われ、ミレイユはシルヴァーナから解放された。
 「明日の正午、リベオの僧院で待っている。契約書と共に・・・」
 これはミレイユへの決闘の申し込みだった。
 ミレイユにはもう拒む権利も、逃げる選択もなかった。
 顔が、素性が知れているのだ。
 例えここで逃げたとしても、シルヴァーナはどこまでも、死の果てまででも追ってくるだろう。
 去り際に殺気の主に一瞥し、シルヴァーナは姿を消した。
 「先に帰ったんじゃなかったの?」
 ミレイユは殺気の主に声をかけた。
 それを感じた時にすぐに霧香だとミレイユは分かっていた。
 後をつけていたことを、咎める気はなかった。
 霧香なりに心配していたんだろうことは想像できたし、なによりあの時殺気を感じなかったらどうなっていたか分からない。
 霧香が木の茂みから姿を現した。
 その手には銃が握られている。
 ミレイユは霧香と目を合わすことができなかった。
 気まずさを感じていたからだ。
 ここ数日というもの、霧香に情けない姿ばかり見せている気がした。
 けれど霧香は必要以上には何も訊いてはこないだろうことは、ミレイユには分かっていた。
 ミレイユ自身に感心がないからか、はたまた気を使っているからか、どちらかは分からないが霧香とはそういう子だった。
 「あれが・・・」
 ミレイユは霧香の言わんとすることが分かったので頷いた。
 「イントッカービレ」

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 「これを・・・なぜ欲しがったの?」
 苦痛まじりのシルヴァーナの声が私の耳に届いた。
 契約書のことを言っているのだろう。
 私が契約書を欲した理由・・・。
 両親が殺されたことに関わる、ソルダと言う組織について記されているから。
 それにシルヴァーナ、あなたに会いたかったから・・・。
 「私の両親が・・・」
 それだけしか言えなかった。
 これ以上何か喋れば嗚咽が漏れてしまいそうだった。
 「フフッ、ノワールに、コルシカの娘に、今こそ冠を捧げましょう」
 私の脳裏に鮮やかにあの日の思い出が蘇ってきた。
 シルヴァーナが私のために花を紡いで作ってくれた冠を頭にかざしてくれたこと。
 それは畏怖が隠伏していた淡い、甘い記憶。
 「受け取ってくれるわね、ミレイユ。あ・・・あの・・・ときの・・・よ・・うに・・・・・」
 シルヴァーナが沈黙した。
 シルヴァーナが私に殺されることを望んでいたように思えてきた。
 彼女は私が冠を受け取るにたる器量になるのを待っていたのかもしれない・・・。
 背後で霧香が私を窺っている気配がした。
 私は立ち上がった。
 太陽がちょうど沈んでいくところだった。
 私はその夕日を見つめながら、霧香の方は見ず
 「下品な殺し・・・あんたみたい」
 と、わざと厭味に響くように、棘のある言い方をした。
 私は、今シルヴァーナと二人きりになりたかった。
 霧香が数度私のことを呼んだが、無視した。
 私の気持ちを察してくれたのか、霧香はこの場を後にしてくれた。
 ようやく私は振り返り、シルヴァーナの姿を見た。
 シルヴァーナは、やさしい夢でも見ながら眠っているかのように、安らかな顔をしていた。
 胸元が血で真っ赤に染まっている。
 私にはもう抑えることができなかった。
 シルヴァーナへの想いと共に、涙が止めどなく溢れてくる。
 私のこの行き場を失った想いは、一体どこにいくのだろうか・・・。
 この気持ちを伝える術はもうないのだ。
 私はシルヴァーナの傍らに両膝を着き、屈みこんだ。
 両手をシルヴァーナの顔を挟んで地面に着き、その顔を至近距離でジッと見つめた。
 涙が頬をつたい、シルヴァーナの頬へこぼれ落ちていった。
 シルヴァーナの常に左目を覆っている前髪を、右手で掻き揚げてやった。
 綺麗な顔・・・。
 なぜいつもそれを隠していたの・・・?
 「・・・シルヴァーナ」
 十数年ぶりに私は彼女に呼びかけた。
 けれど返事は何もない。
 唇が微かに動いた気がしたのは、私の見間違いだろう。
 溢れ出る想いをのせて、私はその気高き唇にキスをした。


シルヴァーナ編 『遠き日の冠を貴女に』へ

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