虚ろな現実 acte1


 おかしい・・・今日のミレイユは。
 ホテルの一室で、ミレイユは私の髪を切っていた。
 おかしいといっても、散髪という行為が、ではない。
 余りにもミレイユが機嫌よく振る舞い過ぎていることである。
 襟足をザクザクと切りながら、鼻歌までも歌っている。
 今まで−そう長くはないが−一緒に暮らしてきた中で、こんなミレイユを見たことがない。
 突然、鼻歌と同時にその手が止まった。
 「・・・ミレイユ?」
 振り返ってみると、さっきまでとは打って変わって暗い表情をしている。
 重い空気が漂う。
 「イントッカービレ・・・聞いたことある?」
 問いかけてくるミレイユの声が弱々しい。
 「うん。おかすべからざるもの・・・イントッカービレ。決して手を出してはならない存在」
 私は顔を正面に戻し、知る限りのことを答えた。
 「私は・・・・・。私はその人を知っている」

 シシリア・マフィア幹部の暗殺。
 今回の仕事は事も無げに完了した。
 ただ、問題なのは今だ依頼人から報酬を頂いていないということであった。
 報酬は、ソルダが関わる契約書。
 ソルダ・・・。
 私の失われた記憶。
 そして、ミレイユの両親と兄が殺害されたことに関係する組織。
 それ以外は何も知らない。
 だからこそ、その契約書を手に入れたかった。

 「ねぇ・・・入ってもいい?」
 夕方、うたた寝でもしようかとベッドに横たわっていた時だった。
 少々遠慮がちなミレイユの声がした。
 見上げると、下着姿でベッドの側に立っていた。
 自分の足下を見つめている。
 すらりと伸びた手足。
 私とは比べようがない程、女らしい姿態。
 だけど、不安げな表情がひどく彼女を幼く見せていた。
 「・・・うん」
 ミレイユのスペースを空けるため、窓側の方へ移動した。
 体を丸めて窓の外の夕焼けを見ていると、ミレイユが入ってきた。
 体を寄せてくる。
 首の後ろあたりにミレイユの背中を感じる。
 夕日と静寂が辺りを包む。
 心地よいミレイユの体温が眠気を誘う。
 ちょうど、うとうとし始めた時だった。
 ミレイユが沈黙をやぶり、語りだしたのは。
 イントッカービレについて・・・。
 イントッカービレ、世界でもっとも凶暴な姫君と謳われているシルヴァーナ・グレオーネ。
 幼い頃コルシカ・マフィアだった父とシシリアを訪れた時、そこのマフィアを束ねるドン・サルヴァトーレに連れられた彼女に会ったことがあると。
 五年前、実の父を殺しシシリアに幽閉されているということ。
 そして、ドン・サルヴァトーレが、私たちノワール抹殺のために、彼女の幽閉を解いたということ。
 「パウロ、ドミニクス、フランチェスコ。聖人の名を持つ三人のマフィオース。シシリアンの中でも知られたあの三人が、イントッカービレの元に馳せ参じた」
 そこまで話すとミレイユはベッドから起き上がり、窓へ歩み寄った。
 私はようやくミレイユの様子がおかしいのが、イントッカービレによるものだということが分かった。

 依頼人が殺された。
 外出していたミレイユが、凶報を提げて帰ってきた。
 やっとのことで私にそのことを告げると、抱きついてきた。
 何かに怯えるように、その手が震えている。
 少しでもミレイユの不安が取り除ければ・・・と、私は彼女の背中に手をまわした。
 どれくらいそうしていただろうか・・・。
 ミレイユを癒すつもりだったはずなのに、自分が安らぎを感じているのに気が付いた。
 抱擁がもたらす安堵・・・ミレイユも感じているのだろうか。
 震えは治まっているようだった。
 突然、ミレイユが体を離した。
 「・・・ごめん」
 顔を背け謝るミレイユ。
 私には何に対しての謝罪なのか分からなかった。
 うつむいたまま立ち尽くしてるミレイユに、私は掛ける言葉を探した。
 できる限りこの場に適切なものを・・・。
 「ねぇ、ミレイユ」
 ようやく顔が上がり、目が合った。
 困惑したような表情をしている。
 「シャワー・・・浴びたら。少しは気分転換になるんじゃないかな・・・」
 今度は私が目を逸らした。
 ミレイユが、ほぅと息を吐いたのが耳に届いた。
 言葉を選び違えたかもしれない・・・と思った。
 「そうさせてもらうわ」
 見ると、ミレイユの表情が幾分か和らいでいるように思えた。

 ミレイユが浴室へ行くのを見送った後、私は窓から空を眺めていた。
 真っ赤な空、沈んでいく太陽。
 空だけを見ていると、自分が今どこにいるのか分からなくなってきた。
 私には自分のことさえ分からないのだ。
 夕叢霧香・・・この名前も誰かが捏造したもの。
 私はユウムラキリカという嘘の存在・・・。
 突如、私は生きている実感を失った。
 感覚が麻痺していく。
 その中で、頭だけが奇妙な程冴えわたっていた。
 私は誰?
 私はここにいるの?
 誰か教えて・・・ねぇ、誰か助けて!!。
 バタン。
 浴室のドアが閉まる音に、私は現実に引き戻された。
 振り返った時には、もうミレイユは私の方のベッドに潜り込んでいた。
 私に背を向け丸まっている。
 その後ろ姿が頼り無く見えた。
 私はベットに腰を掛け、再び窓の外を見た。
 ミレイユは黙ったままだった。
 これからのことを考えなくてはいけない。
 「契約書はシルヴァーナの手に渡ったのね?」
 自分の足下を見ながら訊いた。
 「間違いないわ。シルヴァーナはあの三人を連れて、ニュージャージーの別荘へ移った」
 ミレイユは思ったより平静な声だった。
 「私達を誘っているのね」
 「誇りにかけてもノワールを処刑する。それがあの人の生まれもつ血」
 「どうするの?」
 私は正直、この件はもう手を引いてもいいと思っていた。
 ミレイユがやめると言えば・・・。
 シルヴァーナはノワールの正体を知らない。
 誘いにのらなければ、向こうからくることはないだろう。
 契約書は手に入らないけれど、こんなにも辛そうなミレイユを見るくらいなら、多少遠回りをしてもかまわない。
 今、ソルダに近付けなくとも、またチャンスは巡ってくるだろう。
 「おかすべからざるもの、イントッカービレ。・・・あの人には勝てない。あの人だけは・・・」
 ミレイユの声が震えていた。
 「ミレイユ?」
 振り返ると、ベッドの中で身悶えている。
 ミレイユが、とても小さな・・・小さな存在に見えた。
 「分かっている・・・。私達にはやるしかない」
 私にはそれが、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
 私もベッドに入り、ミレイユを背後から抱き締めた。
 ミレイユは何も身につけていなかった。
 柔らかく滑らかな肌の感触、温かい体温、髪に残る甘いシャンプーの香り。
 背中に耳を当てると、鼓動が聞こえた。
 私は今ここにいて生きているのだ、と実感した。

 私が行こうか、という申し出をミレイユは断った。
 ノワールを名乗る限り越えなくてはいけない壁だから、とのこと。
 心配だけれど、ミレイユ自身が決めたことなので、異論は唱えなかった。
 直接シルヴァーナの元に行くのがミレイユで、私はその援護ということになった。
 別荘の側の森までくると、お出迎えがきてくれた。
 随分と歓迎されているらしい。
 マシンガンを盛大に打っ放してくる。
 私が応戦するその隙に、ミレイユは別荘へ向かった。
 ミレイユは大丈夫だろうか・・・?
 不安が頭をよぎったが、銃声にかき消される。
 今は自分に課せられてことを、こなさなくてはいけない。
 神経を集中させる。
 敵はどうやら二人。
 確かミレイユの話では、三人のマフィオースが集ったと言っていたはず。
 ということは、もう一人は別荘の中?
 いけないとは思いながらも、つい考えてしまう。
 頭を横にふり、思考を払拭させる。
 二人の敵に思いのほか手こずった。
 いや、手こずったというものではない。
 私は敵を一人も仕留めることができず、その上負傷までしてしまった。
 利き手である右腕を。
 力が入らずトリガーを引くことさえままならない。
 時間も十分に稼げただろうし、仕方なく退避することにした。
 ミレイユが契約書を手に、戻ってることを祈りながら。

 約束の場所には、まだミレイユの姿はなかった。
 別荘の方を見遣るが、その気配はない。
 行くべきか・・・と思ったが、今は右手が思うように動かない。
 何の役にも立たないかもしれない。
 ミレイユの様子からすると、やはり私が行った方が良かったかもしれない。
 もしミレイユが戻ってこなかったら・・・。
 不安、焦りが押し寄せてくる。
 ミレイユ・・・・・。
 私は、十数えることにした。
 心を落ち着かせるためにも。
 そして、それでも戻らなかった時は行くことにした。
 一・・・・・。
 二・・・・・。
 三・・・・・。
 四・・・・・。
 五・・・・・。
 六・・・・・。
 七・・・・・。
 八・・・!!
 足音がした。
 念のため、銃を構える。
 右腕に激痛が走る。
 沈んだ顔のミレイユが、足取りも重く姿を現した。
 私はホッと胸をなでおろし、銃もおろした。
 一目瞭然に契約書は手に入らなかったのが分かった。
 けれど私には、ミレイユが無事に戻ってきたということの方が大きかった。
 無言のままミレイユは車に乗り込んだ。
 私も助手席に乗り込む。
 エンジンをまわし、アクセルを踏み込む。
 ミレイユがようやく重い口を開いた。
 「やりそこなった・・・。いえ、やれなかったのよ私は!」
 私はミレイユの横顔を見つめていた。
 悔しそうにも、哀しそうにも、憤慨しているようにも見えた。
 負傷した腕に目をやる。
 すぐに動くようになるだろうか・・・。
 「顔は見られたの?」
 見られていたならば、状況は最悪になる。
 だが、ミレイユの答えは曖昧だった。
 「分からない・・・。分からないわ!」

つづく

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