霧香と私



 ミレイユの、私を見る目が変わった。
 古文書の手がかりを追ってウィーンへ行ったその帰路から、ミレイユは事務的なこと以外口にしなくなった。
 明らかに私に接する態度が変貌した。
 私の中の霧香ではない『私』の存在に、ミレイユも感付いてしまったのだろう。
 ソルダの巣の中で生まれ育ちアサシンとして最高の資質を示した者。クロエは『私』をそう言った。
 それが喪失してしまった過去の『私』。夕叢霧香という嘘ではない、本当の『私』。
 クロエは、またこうも言った。ソルダこそあなたの故郷だ、と。
 ソルダの巣の中で生まれ育った『私』は、やがてソルダへと帰っていく。
 それは、極自然の摂理に適ったもののようにも思えた。
 もしそうなれば、ミレイユはどうなるのだろうか。ミレイユと私のノワールは?
 ミレイユと私の関係は、約束の時がくるまでのものだった。全てが分かった時、私はミレイユに殺される。
 その約束の時も確実に近付いてきていた。
 私がソルダに帰る日が先か。それともミレイユとの約束の日が先か。
 結局どちらにしても、ミレイユと一緒に過ごせる時間が残り少ないことは明白だった。
 そう、もう時間は残されていないのだ。
 それなのに、現状はミレイユとまともに会話すらできない状態になっていた。話そうにもミレイユは私からの言葉を拒絶しているような態度だった。
 どうしても伝えておきたいことがあると言うのに。
 別れの時に最後の言葉を交わせる時間があればいいのだが、それさえもままならないとすれば・・・。例えどんなことになろうとも、それだけは避けたかった。
 そこで会話以外で気持ちを伝えられる手段、手紙を書くことにした。
 深夜、ミレイユが寝入ってる頃を見計らって、筆を執った。
 しかし、いざ文字に表そうとすると何から書いていいのか分からず、一向に書けなかった。ペンを握ったまま時間だけが過ぎていき、目の前の便せんはいつまでも白紙のままだった。
 このままでは何も書けないままで朝を迎えることになりそうだったので、ひとまず端的に伝えたいことを書き出してみることにした。
 不揃いな文字で綴ったまとまりのない文章はミレイユに対する想いでいっぱいになった。
 書いてみて、いかに自分がミレイユを、そして霧香としてミレイユと共に過ごした時間を大切に思っていたのかを身にしみて感じた。
 しかし、このままのものをミレイユに見せる訳にはいかない。もう少し筋の通った文章にしなくては、逆に気持ちが伝わらないであろう。
 再度、白紙の便せんに向かった。
 一度素直な気持ちを書いてみたからか、今度は筆を進めることができた。けれど、どうしても上手く文章が書けない。
 考えあぐねながら、最後の1行を書き終えた頃には空が白み始めていた。
 文才が乏しいからか、納得のいく文章にはならなかったが、伝えたいことは書き記せたつもりだった。
 そして、この手紙を花に託した。ずっと大切に世話をしてきた鉢植えに。
 いつかきっとミレイユに届くことを祈って。



 先ほどまでの雨で、私の身体はずぶ濡れになっていた。
 目の前には全てを知ったミレイユがいた。
 ミレイユが追い求めていた過去の真実。それは、失われた私の記憶と密接な関係があった。いや、密接どころではなかった。直接関係があったのだ。
 ミレイユの家族を殺したのは、私だった・・・。
 これまで数多くの人たちを手に掛けてきたけれど、今程悔やんだことはなかった。しかし、いくら悔やんでも償うことは不可能だった。死んだ人間は2度とは生き返ってはこない。私の命をもってしても償うことはできないのだ。
 ミレイユとの別れの時が訪れた。約束の時が、ついにきたのだ。
 ミレイユがゆっくりと私に銃口を向けた。
 思い残すことは、もう何もなかった。
 全ては手紙に綴っておいた。
 それに、今ここでミレイユに殺されることは私にとっても願わしいことであった。
 例え私の故郷であろうと、ソルダの巣の中になんて帰りたくなかった。ソルダに帰り別の何かになってしまうより、ミレイユに殺してもらいたい。別の何かの方が本当の私かもしれないが、私は霧香でいたかった。嘘であっても、霧香でありたい。
 本当は霧香として、もっともっとミレイユと一緒にいたかった。でも、それは許されないこと。それが叶わない今、ミレイユに殺されるということが私にとっては最善だった。
 私はミレイユから放たれる弾丸を待ち、そっと目を閉ざした。



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次は、最終話の後の話を書く予定です。